い女なんかと出来合うなんてさ? だいいち値打ちのない女に、惚れるなんていう法はないわ。」
「口はなんとでも言えまさあ! だがね、一体全体そうした物ごとが、理窟や分別ではこぶとでも思うんですかい? ふらふらっと迷いこむ、ただそいだけのことでさあ。……女がいる。その女とね、こっちじゃ別にこれという下心もなしに、あっさりつきあっているうち、ひょいと戒律を犯してしまう。そうなると女は、こっちの首っ玉へぶらさがって来て、いつかな離れることじゃない。これがつまり、恋仲っていうもんでさ!」
「いいかい、セリョージャ! あたしはね、お前さんにこれまでどんな女があったかは知らないし、今さら野暮ったくそれを洗いたてようとも思わないさ。ただね、これだけはお忘れでないよ――あたしたち二人が、今の仲になるまでにゃ、どんなにお前さんがあたしを口説き立てたかっていうことをさ。お前さん自身だって忘れちゃいまいねえ、――何もあたしからばっかし好きこのんでこの恋に身を投げだしたわけじゃなくって、まあ半分がとこはお前さんのワナにはまったも同然だったということをね。だからさ、もし万が一お前が、いいかいセリョージャ、このあたしを今更ほかの女に見かえるようなことがあったら、よしんばその女がどこのどなた様であろうがあるまいが、ねえ可愛いセリョージャ、済まないけどあたしはお前さんと、とても生きちゃ別れられまいと思うのさ。」
 セリョージャはぶるりと身をふるわせた。
「だってさ、カテリーナ・イリーヴォーヴナ! おいらの大事な掛替えのないお前さん!」と、彼は急に雄弁になって、――「二人の仲だの何だのって仰しゃるけどね、そういうお前さん自分で、それがどんなもんだか、とっくり検分してみなさるがいいや。現に今しがたもお前さんは、おいらが今晩は妙に沈んでると言いなすったがね、これでもおいらが沈まずにいられるものかどうかという、そこんところを、ちっとも考えちゃくれないんだ。おいらの心の臓はね、ひょっとすると、べっとり固まった血のりの中に、ずぶり浸《つか》っているようなもんだぜ!」
「聞かせて、さ、聞かせておくれ、セリョージャ、お前さんの苦労を洗いざらい。」
「聞かせるも何もありゃしねえ! 第一さ、今にもそら、思ってもぞっとするぜ、お前さんの亭主が、がらがらっと馬車で帰ってくる。と、途端にもう、可哀そうなこのセルゲイ・フィリップィチの奴は、さらりと秋の捨て扇だ。すごすご裏庭へ退散して、胴間声の歌の仲間入りでもして、納戸の軒から指をくわえて、カテリーナ・イリヴォーヴナの寝間に蝋燭がぽっかりともってるところだの、おかみさんがふかふかした蒲団を叩いて膨らましてるところだの、天下晴れての御亭主のジノーヴィー・ボリースィチとよろしくお床入りの有様だのを、あっけらかんと眺めていなけりゃならないんだ。」
「桑ばら桑ばら!」と、カテリーナ・リヴォーヴナは陽気に声を引っぱって、可愛らしい手を振った。
「なんで桑ばら桑ばらなものかね! 憚りながらあっしだって、あんたという人が所詮そうならずにいるものでないことぐらい、ちゃんと心得ていますさ。だがね、カテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしだっても、おいらなりに心もあれば情けもあるんだ。そいで自分がどんなに苦しいだろうかってことも、ちゃんと見えずにはいないというわけでさあ。」
「もう沢山。そんな話、もうよして。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、いかにもセルゲイらしい嫉妬の表現を耳にするのが愉快でならず、大声で笑いだしながら、またもや接吻の雨をふらせはじめた。
「くどいようだがね」とセルゲイは、肩さきまでむき出しのカテリーナ・リヴォーヴナの両の腕から、そっと自分の頭を抜けださせながら、なおも言葉をつづけた、――「くどいようだけどね、もう一つ、ついでに聞いておいて貰いたい事があるんだ。ほかでもないがそりゃあ、こうしてあっしがあれやこれやと、くよくよ男らしくもなく、同じことを一ぺんどころか十ぺんも思案したりするのは、一つにはあっしの境涯が、この通りの賤しい身分だというせいもあるんでさ。仮りにもしあっしが、いわばまああんたと対等の身分でさ、何かこう旦那とか商人とかいわれる身の上だったら、それこそもうあっしとあんたとは、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしの息のある限り離れっこはないんだがなあ。ところが実際は、あんたもよく考えておくんなさいよ、あんたの前へ出ちゃあ、あっしという人間は、いったい何者ですかい? 今にもあんたが、その白い可愛らしい両手をほかの男の手にとられて、寝間へ連れていかれたにしたところで、あっしは何もかもこの胸一つに、じっとこらえていなけりゃならないんだ。いやそればかりか、その無念さのおかげで、ひょっとすると一生涯、われながら見さげ果てた腰抜け野郎だと、自分で自分を阿呆あつかいにするようにさえ、なり兼ねないものでもないんだ。ねえ、カテリーナ・イリヴォーヴナ! あっしはね、女からただ一時の快楽をせしめさえすりゃ、あとは野となれ山となれ式の、ほかの奴らとは違うんですぜ。あっしはこう見えても、恋がどういうものかぐらいは、じかにこの胸で分っているつもりですぜ。そいつがまるで黒い蛇みたいに、あっしの心の臓に吸いついて離れないことも、ちゃんと分ってるんですぜ。……」
「なんだってお前さん、そんなことをくどくどあたしにお説教するのさ?」と、カテリーナ・リヴォーヴナは相手をさえぎった。
 彼女はセルゲイがふびんになって来たのである。
「カテリーナ・イリヴォーヴナ! つい話がくどくなっちまうんですよ。いやでも、くどくならずにゃいられないんですよ。だって、そうじゃないですかい、万事もう事の筋みちがちゃんと読めていて、運命はきれいさっぱり決まっているんだ。おまけにそれも、いつか遠い先のことなんかじゃなくて、明日《あす》の日にもこのセルゲイの奴は、この屋敷うちに影も形もなくなっちまうんだ。これが平気でいられますかい?」
「だめよ、いけないわ、そんなこと言うもんじゃないわ、セリョージャ! あたしがお前さんから離れて暮すなんて、そんなこと決してありっこはないわ」と相かわらず情合いのこもった声で、カテリーナ・リヴォーヴナは男をなぐさめるのだった。――「かりに万一、そんなことになったとしても……その時は、あの人が死ぬか、あたしが死ぬか――とにかくお前さんは、あたしといつまでだって一緒だわ。」
「いいや、そいつはとても、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、望みがありませんや」とセルゲイは悲しげにまた侘びしげにかぶりを振りながら答えた。――「こんな恋をしたばっかりに、あっしは生きているのが、さっぱり味気なくなっちまった。同じ惚れるにしても、いっそおとなしく、こっちと身分の釣り合った相手にしといたら、こんな苦しい思いはせずに済んだろうになあ。一たいあんたという人を、このあっしが末永く恋女にして行けるとでもいうんですかい? それがあんたの何か名誉になるとでもいうんですかい――あっしずれの色女だということがさ? 叶うことならあっしは、聖なる神の祭壇の前で、あんたの良人になりたいんだ。そうなったらあっしは、そりゃ勿論あんたに対しちゃ自分は一目も二目も置かなけりゃならん男だということは二六時ちゅう肝に銘じて忘れないまでも、とにかくあっしは、じぶんの細君を心から尊敬しているという点にかけちゃ、立派に良人たる資格のある男だということを、大っぴらに世間の奴らに見せつけてやれる自信があるんだがなあ。……」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、このセルゲイの言葉をきき、彼の嫉妬のはげしさや、自分を妻にしたいという願いを知って、頭がくらくらっとしてしまった。なかでもこの最後の願いは、よしんば当のその男と結婚まえに身も心も許しきった仲であったにしろ、女性にとってはやはり、いつ耳にしても嬉しい言葉なのである。今やカテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイのためなら火にも水にも飛びこもう、牢屋にもはいろうし十字架にものぼろう、という覚悟がついた。言いかえればセルゲイは、女をすっかり惚れこませてしまって、わが身にたいする女の無辺無量の献身を、まんまとその手に収めたわけである。女はじぶんの幸福に狂気せんばかりだった。彼女の血は湧きかえって、もはやそのうえ男の言葉に耳をかたむける余裕はなかった。彼女は、いきなり手の平でセルゲイの唇をおさえると、男の頭をじぶんの胸に押しつけながら、こう口走るのだった。――
「いいわ、そうなったらもうあたし、立派な商人にお前さんを仕立てあげてみせるわよ。そしてお前さんと、天下晴れての夫婦ぐらしをするんだわ。ただねえ、お前さん、事がまんまと落着するまでは、下手にくよくよしてあたしをがっかりさせないでおくれよ。」
 そこでまたもや、接吻と愛撫がひとしきりつづいた。
 年寄りの番頭は納屋で寝ていたが、深い眠りのひまひまに、夜ふけの静寂をみだしてひびいてくるさざめきを、だんだん耳の底に感じはじめた。どうやらそれは、どこかその辺に腕白小僧が寄りあって、ひとつあのよぼよぼ爺いに一泡ふかせてやろうじゃないかと、さかんに悪計をめぐらしていでもするような、ひそひそ声と忍び笑いでもあったし、かと思うとまた湖の妖精たちが、行き暮れた旅人か何かをなぶり物にしているみたいな、甲だかい陽気な笑いごえでもあった。それはほかでもない、月の光りをぴしゃぴしゃ撥ねかえしたり、ふっくらした毛氈の上をころげ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったりしながら、カテリーナ・リヴォーヴナが亭主の使っている若い番頭を相手に、じゃれたり、いちゃついたりしている声だったのである。ひらひらと、またはらはらと、こんもり茂った林檎の木からは、咲きたての白い花が、二人のうえにしきりにふり注いでいたが、やがてそれも散りやんでしまった。そうこうするうちに、夏のみじか夜はいつしか移って、高くそびえる穀倉の切りたったような屋根のかげに月は沈み、だんだん朧ろめきながら、斜めに地上を照らしていた。台所の屋根からは、けたたましい猫の二重唱がひびいてきた。やがて、唾きをはく音や、腹だたしげな鼻息がきこえたかと思うと、毛並みをみだした猫が二三匹、屋根に立てかけてある小割板の束をがさつかせて駈けおりてきた。
「さあ、もう行って寝ようじゃないの」と、カテリーナ・リヴォーヴナは毛氈からそろそろ身を起すと、まるで精も根もつきはてたといった調子で、のろのろとそう言った。そして、いつのまにかシュミーズと白いスカートだけになって寝ていたそのままの恰好で、ひっそりとした、まるで死に絶えたようにひっそりした商家の構内を、ふらふら歩いていった。そのあとからセルゲイは、片手に毛氈を、のこる片手には、さっき彼女が興に乗ってぬぎ捨てたブラウスを、かかえてついて行くのだった。

      ※[#ローマ数字7、1−13−27]

 蝋燭を吹き消して、肌着もなにもすっぽり脱ぎすてて、ふかふかした羽根ぶとんへもぐり込むが早いか、カテリーナ・リヴォーヴナは忽ちもう、正体もなく寝こけてしまった。なにしろ、さんざんふざけ抜き、いちゃつき抜いたあげくの果てだから、カテリーナ・リヴォーヴナの眠りの深いことといったら、足もぐっすり寝ていれば、手もぐっすり寝ているといった塩梅だった。ところが、まもなく彼女は、またもやドアがそっとあいて、さっきの猫がどさりと古靴かなんぞのように寝床の上へ落ちた気配を、夢うつつのうちに聞いたのである。
『ほんとに、なんてまあ忌々しい猫だろうねえ?』と、へとへとのカテリーナ・リヴォーヴナは思案するのだった。――『今度はあたし、わざわざ自分のこの手でドアの鍵をかけておいたし、窓もしまっている。だのにまたやって来たわ。よおし、さっさと追ん出しちまおう』と、カテリーナ・リヴォーヴナは起きようとしたが、ねぼけた手や足が言うことをきかない。そのまにも猫は彼女のからだの上を所きらわず歩きまわり、何やら奇妙な鳴き声をたてるのだったが、それがまたもや、まるで人間が口をきいているみたいに聞える。しまい
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