の諸式に荘厳をつくし、きれいにそろった『たえなる』の唱歌を聴くことは、彼らにとって最も高尚でも最も清らかでもある慰めの一つなのだ。唱歌隊がうたうと聞くと、そこには忽ち町の人口の半ばちかくが押し寄せるのだが、とりわけ熱心なのは商家の若者たちである。番頭衆も子供たちも若い衆も、大小さまざまの工場の職工も、それのみか当の主人たちまでが細君同伴で、われもわれもと一つ教会へ押しかける、それがみんな、せめて表の昇り口にでも割りこめさえしたらいい、いや焼けつくような炎暑の日だろうと、ぴりぴりするような酷寒の日だろうと、窓の下でさえ結構がまんするが、とにかく音程がいかに歌いこなされるか、そして天馬空をゆく如きテノールが気まぐれ千万な前打者《フォルシラーク》をいかにやってのけるかを、しかと聴きとどけずには気の済まぬ連中なのである。
 イズマイロフ家の檀那寺には、聖母の宮入りを祝う祭壇があったので、さてこそこの祭日の前の晩、あたかもフェージャの一件がおこなわれた丁度その時刻には、町じゅうの若者がその寺に集まっていたのであったが、やがて騒々しい人波をなして退散しながら、さすがは音に聞こえたテノールだけあって
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