う学説があるから、動物園の猿は、もう少し待ったらみな人間になって、『論語』や『孟子』を愛読するだろう、という事に似ている。しかし動物園の猿がまだ人間になったためしがない。人間は人間で、猿はいつまでも猿である。流行唄はいつまでも流行唄であり、芸術的なリードはリードである。それぞれ違った意味の存在である。
 私は今せっかく出来上った国民歌謡にけちをつける気は毛頭ない。けちを付けて見ても私の得にならない。そしてあれが大いに国民の音楽教育の助けになるという事は私は信じて疑わない。そして将来あるいはその中から美しいリードが出ないとも限らない。しかしこの流行唄でない国民歌謡で流行唄をやっつけようという事には多少計画に矛盾がある。それは話がまた別である。私は国民歌謡にけちを付ける気が毛頭ないように、レコード屋さんの提灯を持つ気も毛頭、毛頭、毛頭ないが、もし私がレコード屋さんの取締役であったら、国民歌謡のようなものがいくら出来ようが、全く平気である。それはそば屋の隣に教会が出来たようなものである。物が違っているから、少しも商売の邪魔にはならない。
 流行唄というものは人間の感情の一大要求である。冷い修
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