という感じは決して不愉快ではない。不愉快などころか積極的に面白いと思う。ニッポン人のゾプランやテノールの声は私はすきである。もし私に唄が唄えたら、私はもちろん本格的なテノールで『冬の旅』を唄う。しかし私はニッポン人だからニッポン風にも唄って見る。それは持って生れたもので、声の綺麗なニッポン人なら誰でも唄える。西洋のド・レ・ミのむずかしい練習も何もいらない。私は『追分ぶし』も唄うだろうし、『東京ラプソディ』も唄おう。それも音楽である。そして唄いたいから唄うのに、一体誰に遠慮がいるだろう。
月々レコード屋さんは洪水のように流行唄を作り出す。そのうちの極めて少数なものが選ばれて私共大衆の気に入って流行する。非常な厳選である。そしてレコード屋さんの必死の宣伝も今ではどれだけ大衆の選択力を支配することが出来るか、多少疑問だそうである。そのくらい流行唄は私共の生活の中に根を張っている。そしてそれはニッポン人の持って生れた咽喉で、持って生れたままの唄い方で唄われる。これに西洋音楽の系統の学校唱歌や国民歌謡ぐらいで対抗しようというのが、そもそも話が無理である。
私は流行唄というものが、どれだけ社会
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