音を次にあげておく。第一回目はどれも前に挙げたのと同じ事である。同じ音でもすでにこのくらい違ってくる。これがもし協和しない他の鍵盤の音だとしたら、その混雑さは読者諸君にも容易に想像する事が出来よう。
これは本当に実在する事柄である。写真がそれを説明し、理論がよくそれを承認する。それにもかかわらず、この事実がこれまで何故に批評家や先生の耳には聞かれなかったか、たとえばショパンの有名な『プレリュード』のh短調や Db[#「Db」は縦中横] 長調では同じ鍵盤がつづけさまに叩かれる。その時には、第二の音は第一の音とはすでに相当音の性質が変っている。ペダルを使えばそれは特にひどくなる。しかし楽譜は決してそんな事を要求していない。これが何故に音楽上の問題にならないか。普通はただ同じ性質の音がつづいていると思われているが、それで何の不都合もないものであるか。
この明瞭な事実さえも聞き落されるくらいなところへ、写真もそれを証明しないし、理論も容易にそれを承認しないタッチなどいうような怪しげなものだけに限って、特に明瞭に批評家やピアノの先生の耳に聞き取られていいものであろうか。そんな事は私共の常識がまず承知しない。
私はピアノの音について、もう少し他の事をお話して見よう。
C 音の遅速
ピアノを弾く人は、ピアノの音が鍵盤を叩いた瞬間よりもいくらか遅れて出るという事実にあまり気がつかない。しかし、そのような事実を平気で聞き落していいものであろうか。
ピアノ鍵盤は沈むのに時間がかかり、その鍵盤の運動が槌で絃を叩く運動になるまでには、いろいろピアノ特有の機構があって、また時間がかかる。この時間は以前にヤマハ・ピアノ会社でオスチログラフの方法で計算され、今またタグチさんの考案によるトーキーの方法でも計算された。この時間の遅れは、もちろん鍵盤の沈む角速度によって一定していないが、ヤマハ・ピアノ会社では〇・〇三秒であり、タグチさんが考案した方法では、まず大体〇・〇二秒くらいである。いずれにしても、今ピアニストが或る音を出そうと思ってから、後〇・〇二秒から〇・〇三秒くらいしなければ音は出ない。よほど上等なピアノの機械でも、この音のおくれを無くする事は出来ない。
しかし、この時間の遅れは、決して平気で聞き落してもいいような瑣末なものでない。そしてその時間は鍵盤の沈む角速度に関係するから、音楽としては誠に重要な一問題である。たとえばショパンの『プレリュード』Db[#「Db」は縦中横] 長調で、はじめ Db[#「Db」は縦中横] の部分をpで弾いたあとで、中の c#[#「c#」は縦中横] の部分をfで弾いたら、その部分のピアノの音が一体で早く出すぎると感じなくてはならぬはずである。
あるいは今ショパンの『エテュード』As[#「As」は縦中横] 長調――作品二五の第一――を弾くとする。その第一七小節から五小節の間は右手が六つの十六分音符を叩く間に左手は四つの十六分音符を叩く。この曲をクリンドヴォルト版に従って四分音符一〇四の速さで弾くとすると、この小節の左右の指の喰違いの時間は、ざっと〇・〇五秒である。槌の動きの遅いピアノでは、これはほとんどピアノのそのものの音の遅れの時間に近づいてくる。もし左手も相当強く叩けば、この喰違いの時間は非常に曖昧になる。もしここをペダルをかけて弾くなら、この時間は決して普通の人の耳にはいらない。
誰でも弾くツェルニーの『四〇練習曲』の第二六A長調は、ペテルス版では曲の速さが八分音符三つが八八となっている。この場合では右手と左手の喰違いはピアノそのものの時間の遅れより早くなる。もし先生がぼろぼろピアノでこの曲を弟子に教えながら、お前の左手と右手との時間が悪いなどと言うなら、そんな先生は明かに出鱈目という先生である。音ははっきり聞いていない証拠である。
これはほんの一例である。ピアノにはこのような事はまだまだ沢山ある。これはみな十分明瞭な事実である。それにこの明瞭な事実は批評家にも、ピアノの先生にも一般に聞かれていないで、そして存在の曖昧至極なタッチの巧拙という事だけがひとり明瞭に聞き出されていいものであろうか。一体そんな事で私共の常識が承知するだろうか。
諸君の中にはタッチの稽古をした人もあろう。あんな先生の言う事は真面目になって本気で聞いていられるものでない。それは大抵音と関係しない事である。音の出る前の指や手の形の事である。たとえば指を鍵盤に直角に曲げて叩けという類である。指紋を取るように指を平に延べたらいけないという類である。しかしこれは単に分力の問題である。そして鍵盤の沈む角θは普通5度内外であるから、この場合 [#ここから横組み]sinθ=0[#ここで横組み終わり] あるいは [#ここから横組み]cosθ=1[#ここで横組み終わり] と見て少しもさしつかえない。指の曲げ方などは常識で考えてピアノを弾く事には問題にならないくらい僅なものである。各※[#二の字点、1−2−22]勝手に弾きやすいように弾けばそれでいい。その外いろいろなタッチの教は、結局手踊の一種である。甚しいのになると、音が出た後の手の力の抜き方や、手くびの動かし方がタッチと言われている。そんな事を本気になって聞いている方も悪い。もう音の出てしまった後の鍵盤で、どんな手踊をしてみたところで、その音と何の関係もあるわけがない。ピアノ演奏家の生命といわれているタッチの技巧は、まず大抵こんなようなものである。これが迷信でなくて何であろう。
円タクの運転手は円タクの構造をよく知っているはずである。ハンドルを握る手つき一つで円タクの速力が非常に変るなど言って、ハンドルの上で手踊をするような運転手の車には、あぶなかしくて乗っていられない。ピアノも一つの機械である。演奏家はその機械の運転手である。それにピアノ演奏家はピアノの構造にまるで無関心である。機械運転の手つき一つで音が変るなどと平気で言っても世間に堂々と通用する。音楽の世界が迷信の世界である証拠である。
これはピアノ演奏家や音楽批評家が本気で音を聞かない事から起るのであろう。多くの音楽学校には聴音という時間がある。これはゆっくり時間をかけて和絃を聞きわける練習である。和絃を聞きわける事は、ただ普通な音楽的な練習である。音波の性質の変化を聞きわけるような微細な音響学的な仕事に比べたら、はるかに容易である。その聴音の時間には6の和絃6‐4との和絃を聞き間違えたくらいな学生が、卒業して先生になった途端に弟子をつかまえて、お前のタッチの音は――などと言ったのでは、およそ話の辻褄が合わない。それは手踊の師匠や茶の湯の師匠のように、ただ手つきを目で見て言っているだけの事である。
そして批評家はこの事について何故に心にもない事を言わなくてはならないか。ピアノの c'[#「c'」は縦中横] の鍵盤をあるいは指で叩いたり、あるいは万年筆の軸で押したり、あるいは猫の足に蹈ませたりするのを隣の部屋で聞いて、それが一々区別出来るかと問われたら、誰も容易には区別出来るとは考えられまい。答えられると思う人は、勇敢にまず自分でやってごらんなさい。そしたら一度で合点が行く。一つの音でさえタッチの区別の出来ないのに、どうしてあれほど複雑な曲でタッチの変化が耳にわかるか。そしてわからないものをわからないと言うのが、何故批評家の恥になるか。わからないものを正しくわからないという方がかえって批評家の権威でないか。
また私共聴衆は何故に、名人のタッチなどいう曖昧至極なものに感心したような顔をしなくてはならぬのであろうか。それは半分は英雄崇拝の感情を、仮に「美しいタッチ」という言葉で言い表しただけのものであろう。英雄崇拝の感じはどうもやむをえないものとすれば、それを言い表す美しいタッチという言葉が間違っている。音楽にあまり経験のない人は、どうしても演奏家を目で見て楽しもうとする。何かの理由で偶然その演奏家が世間的に有名な人だとしたら、それに英雄崇拝の感じが混ってくる。目がある以上は目で演奏家の姿を見てそれを楽しんでも悪くはあるまい。ただ演奏家の手つきが、ぐにゃぐにゃとして、さも柔かそうに動くから、そのピアノからも柔かそうな音が出るだろうと思うのは、それがそもそも迷信のはじまりである。
ピアノは結局音を聞く楽器である。私共が本気になってピアノの音だけを聞くとしたならば、今までのような荒唐無稽なタッチなどいう事はとくの昔になくなっていいはずである。
ピアノ演奏家に許される事は、ただ楽譜の不備を実際的に補う事だけである。楽譜が音楽を記述する方法は、音の高さを除いては全然非数量的である。ただ大体「|速く《アレグロ》」とか「|遅く《アダジオ》」とか、「|強く《フォルテ》」とか「|弱く《ピアノ》」とか言うだけである。どのくらい速くか、どのくらい強くか、数量的には書かれない。楽譜はちょうど寸法の書いてない洋服の註文書のようなものである。その寸法を自分の考えで入れて、実際洋服に仕立てるだけがピアノの演奏家の仕事である。その寸法に多少の独創があると言えばあるくらいのものである。もし楽譜が改良されて、作曲家の考えを数量的に書くようになれば、ピアノの演奏家には全く独創という事はなくなる。全く機械と同じものになる。
そして今のピアノの稽古は、表情を習うのが高級な稽古だと言って、弟子は主としてその肝心な寸法を先生に習い、その通りを一生懸命模倣しようとする。それでは全然機械である。全然芸術の独創というようなものはない。
これが私の見たピアノの音楽である。私はピアノの演奏家にならなかった事を非常に幸福に思っている。
3 私の考
読者諸君、諸君は私のこの話を聞いても、にわかに同意しないであろう。諸君はきっとこう言うであろう。――お前の言う事も本当かも知れないが、それでも何となくまだ何か後に残っているような気がする。まさかパデレウスキーが鍵盤を叩いた音と猫が鍵盤を蹈んだ音が同じだとは、どうも何となくそう思われない。お前の話こそどこか間違っていないか? お前の話は実際本当の事か?
私自身はこの話は実際本当だと思っている。音楽というものは、結局こんなものだと思っている。私自身の常識はこの私の話をよく承認してくれる。この反対の事は私には考えられない。
諸君は何故に演奏家などいう怪しげな中間の存在物にそんなに心が惹かれるのか。音楽が成立するためには、演奏家は明かに第二義的な存在ではないか。
ショパンは美しい曲を作った。そしてプレエルのピアノでそれを弾いた。恋人のジョルジュ・サンドはその美しさに胸を躍らせた。同じように今ここにヤマハやカワイのいい音のするピアノがある。ショパンの全集がある。そしてその美しさに胸を躍らす私共聴衆がある。それで音楽は完成していないか。
ショパンのタッチが柔かで綺麗だったと伝説には謳われている。しかしイグチのタッチは柔かで綺麗でないか。イグチで悪いなら――パデレウスキーでもいい。コルトーでもいい。ショパン以後百年も技巧ばかり磨いて来た今の時代のピアノ演奏家が、まさかショパンほどもピアノが弾けないとは思われない。そして曲が同じなら、誰が弾いたところで、結局同じ事である。もし個人特有なタッチの技巧というものがないならば、あとは僅に曲の速度や、強弱の変化や、音の均合などが個人的な特徴になって来るだけである。
そんな僅な事はどうでもいい事ではないか。同じ曲を少し速く弾こうが、遅く弾こうが、そんな事が私共に一体何の芸術的な意味を持つか。ショパンやリストの世にも美しい作曲は、僅ばかり速く弾かれようが、強く弾かれようが、そんな取るにも足らぬ小さい事ぐらいで、毫もその価値は変らない。特にその速さも、強さも、均合も、みな先生の真似事だとなったら、私にはますますそんな馬鹿々々しい事に係り合おうという気は起らなくなる。私はいい音のするピアノがあればいい。ショパンやリストの全集があればいい。弾くのはイグチ一人で十分であ
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