る。イグチが手を病んだなら、――機械ピアノで誠にこの上もなく十分である。私はパデレウスキーなんかに用はない。
 私はパデレウスキーなんかに全く用はない。私はそんなものの興味で音楽を聞くのでは決してない。私がピアノを特に愛するのは、ピアノという楽器の音が特に私の耳に気持のいい感じを与えるからである。そしてこの美しい楽器に書かれたショパンやリストの名曲が特に私の感じに訴えるからである。私がピアノの音楽で聞こうと思うものは、リストが描き出した華やかな音の夢である。ショパンの唄った淋しい人生の哀歌である。それより外のものには用はない。
 諸君は円タクで郊外をドライヴする事があろう。その時諸君はなるべく乗り心地のいい円タクを選ぶであろう。諸君は窓から野や森の景色をながめて、自然の美しさを鑑賞するであろう。そして目的地についたら、円タクの運転手には五〇銭玉を一つ払って帰ってもらうであろう。この場合に、まさか自然の景色を見る事を忘れて、運転手のハンドルの握り方やペダルのふみ方ばかりを見つめている人はあるまい。もしそんな人があるとするならば、それは極めてくだらないドライヴをする人である。
 乗り心地のいい円タクは、音のいいピアノである。美しい自然の景色は、正に芸術家の美しい創作に比べられる。パデレウスキーは運転手である。私共は彼に五〇銭玉を一つ払って、おとなしく帰ってもらえばそれで十分である。この上にパデレウスキーは一体何を私共に要求する事が出来るか。
 私は時々ウエノの森を散歩する事がある。そこで音楽学校の学生が美術学校の学生と仲よく話をしながら帰ってくるのに出会う。それを見る度にいつも私は異様な感じがする。一人は自分の独創的な芸術を画布の上に描き出そうという事を理想としている美術学校の学生で、まさかその一生をラファエルやセザンヌの模写をして過そうと思うような人はあるまい。またその模写にしても、先生が青といえば青、赤といえば赤、何から何まで先生の言う通りに追随する事が一番大きな事業だと思うような人はおそらく一人もあるまい。しかし音楽学校の学生の方は、その美術学校の学生の決してやるまいと思う事だけをやっている。そして仕事は模写と追随だけである。曲はショパンやリストの作ったものである。ピアノはピアノ会社の作ったものである。その弾き方は何から何まで先生の言い付け通りである。もし個人的なものが知らず識らずタッチの上に表われるというかも知れないが、不幸にしてそのタッチというものは世の中には存在しない。やはり今のピアノの学生の仕事を取ってみれば、ただ模写と追随という事より外に何物も存在しない。
 この二人の学生は、将来どうして私共の芸術を求める心を同じ程度に満足させてくれるであろうか。私はピアノ弾きにならなかった事を、いつも幸福だと思っている。
 私はこの話は、ただピアノを例に取って、音楽の演奏という事が何を意味するものかを考えてみただけである。そして私はショパンとジョルジュ・サンドとプレエルのピアノの三つで音楽が成立していた時代が一番理窟にあった、迷信のなかった時代だと思う。私はジョルジュ・サンドの役が買いたかった。

[#ここから2字下げ]
 附記 この小篇は当時方々から多少の反駁を被ったものである。この小篇の基礎になった実験は、私はもう一度別の方法で試みる。それには非常な用意がいる。それは別のところで報告する。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「音楽と生活 兼常清佐随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年9月16日第1刷発行
※プライムはアポストロフィ「'」で、シャープは番号記号「#」で代替入力しました。
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2009年4月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
兼常 清佐 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング