音楽界の迷信
兼常清佐
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1 迷信
音楽の世界は暗黒世界である。いろいろな迷信が縦横にのさばり歩いている。
私はピアノを例に取る。私は楽器のうちで一番ピアノを愛する。私のこの愛するピアノを今しばらく例に取って見る。
批評家はほとんど例外なしに言う。――パデレウスキーやコルトーのような大家の弾くピアノの音は非常に美しい。彼らのタッチは実に巧妙である。この美しい音は全く彼らのタッチから来たものである。彼らの鍛錬を重ねた指の技巧をもってしてこそ、はじめてこの美しいピアノの音が出る。普通の人々がそのタッチをまねて見ようと言っても、それは全然出来ない事である。この美しいタッチの技巧こそ、彼ら世界の大演奏家の生命である。そしてこのような名人の美しいタッチの音を楽しむ事こそ、高級な音楽の鑑賞である。――
これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな怪しげな事があり得ようはずがない。ピアノさえ一定すれば、パデレウスキーが叩いても、私がこの万年筆の軸で押しても、同じ音が出るにきまっている。名人のタッチなどというようなわけのわからないものがピアノの上に存在しようとは本気では考えられない。これが迷信である。
ピアノの先生はほとんど例外なしに言う。――お前はタッチを勉強しなくてはいけない。ピアノの鍵盤の打ち方こそピアノの技術の真生命のあるところである。鍵盤の打ち方ひとつで音はいろいろに変る、打ち方の上手な人の指からは、美しいピアノの音が出る。お前は手の形、指の形などを十分によく注意して、よく先生の言うとおりに直して、いいタッチの出来るように勉強しなくてはならない。先生に習わないで自分一人でやったのでは、指や手の形がわるくて、ピアノの音が美しくない。――
これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな出鱈目な事があり得ようはずがない。パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。どの指で、どんな形で、どんな打ち方で叩こうと、そんな事は音楽の音とは別に何の関係もない。それはただ先生が御愛嬌にそんな事も言って見るだけのものである。それを本当と思いこんで、真面目になって、その通りをピアノの上でやって見ようとするのは、本気で考えると頗る馬鹿げた話である。それが迷信である。音楽はただ音楽である。楽器は楽器より以上の何物にもなり得ない。ピアノはピアノで出来るより以上の仕事は決して出来得ない。私はこのお話で多少でも本当の事と迷信との間に境界線が引けたとしたならば、些《すくな》くも私が朝夕弾いているこの一台のピアノだけは、非常にそれを喜んでくれるであろう。
2 事実
ピアノを弾くという事は、一体人間のどんな種類の仕事であるか、同じような仕事のタイプライターとどう違うものであるか、――そのような問題は人の考えるほど簡単なものでない。それに正しく答えようと思えば、その仕事のいろいろな部分が正しく数量的に記述されていなければならない。その記述という事は決して容易なものではない。私共のその実験はまだ半途である。
ピアノという楽器はどんな機械的な性質のものであるか、――これも重要な問題である。しかしこれも人間の仕事を数量的に記述する事がむずかしいように、むずかしい。或る程度を越えては今のところ不可能である。
ハママツのヤマハ・ピアノ会社は、一昨年航空研究所のスハラ博士の超高速度活動写真でピアノの槌の動き方を撮影した。一秒五〇〇〇こまの超高速度フィルムが竪台と平台とで二本ある。このフィルムを読んで見ることは、他の機会で述べるように、数学的には非常に興味がある。しかしそれでもまだ遥かに材料が足りない事と、このフィルムは写真の視野が狭くて、ただ槌の頭だけしか見えないから、他の部分との関係がわからない事とで、これから直接に、十分にピアノの機構を説明するというわけには行かない。
このヤマハ・ピアノ会社の実験は、ニッポンで今までピアノについて試みられた一番大がかりなものであろうが、それにしてもその結果はただピアノの槌の運動の一部分を説明したに過ぎない。ピアノくらいの機械でも、それを完全に記述し、何から何まで説明することは、想像以上に困難な仕事である。
しかしピアノについては、何から何まで説明し尽されないにしても、その一部分でも説明されたら、それだけ音楽という事実の真相が明るみに出される事になる。私は今多少でもそれを試みてみたい。
A タッチの技巧
音楽批評家やピアノの師匠が熱心に主張するようなタッチの技巧というものが、事実上に本当にピアノの上に存在するか、ピアノは名人が叩くのと、私が万年筆の軸で押すのとで、本当に、事実上、音が違うものであるか。
常識で考えて、そんな事実の存在しない事は明瞭である。これがピアノのようなものであるからこそ、そんな迷信が今日でも平気で行われている。他の機械なら、誰もそんな事を真面目に考える人はない。
しかし手数をさえ厭わなかったら、それは実験して見る事が出来る。ピアニストに実際にいいタッチを試みてもらって、その音を撮影すればいい。そして、そのあとでその同じ鍵盤を万年筆の軸で押すなり、あるいは猫に鍵盤の上を歩かせるなりして、その音を撮影して、この二つがはたして違っているか、どうかを、比べて見ればいい。この場合に撮影機械のほうの条件を一定にしておけば、この二つの写真は大体で客観的な事実を物語っていると思ってもよかろう。
イグチは勇敢にこの実験に応じた。私は理化学研究所のタグチさんの実験室で彼のタッチを実験した。私共はピアノを置く場所を急造した。下に畳を敷き、周囲をネルの壁でかこった。その上を毛布の幕で被った。そしてピアノの音をトーキーのフィルムに撮影した。イグチは彼の持ついろいろのタッチの技巧をこのピアノの上で試みた。また私共はイグチの指の動き方を高速度活動写真でも撮影した。このような実験は必ずしも非常に正確だとは言えないかもしれない。しかし物の傾向を暗示するには十分である。そしてもちろん私の仕事はこれで終らない。これはほんの予備試験である。
その音の写真はどれもみなほとんど同じ音質を示している。イグチが最悪と考えたタッチからでも、最良と考えたタッチの音が出ている。逆に言えば、イグチが半生を費して鍛錬に鍛錬を重ねたタッチの技巧も一番素人くさい、一番悪い打ち方の音も本質的には別に何の変りもない。
ニッポン当代の名演奏家、第一流のピアニスト、イグチは、どんなタッチの技巧をもってしても、ピアノの音波の形を変えることは出来なかった。それならば、そのイグチの出来ない事を外の誰がするか。
イグチの師匠イーヴ・ナットはするか。イグチの尊敬するピアニスト、ゴローヴィッツはするか。あるいはパデレウスキーやコルトーならするであろうか。
イグチに出来ないものなら、パデレウスキーにも出来ない。出来る道理がない。イグチの代りにパデレウスキーをつれてきて、この実験をやったとしても、結果は同じような事になるにちがいない。
ピアノがきまれば、その音はきまる。どんな粗製のぼろピアノからでも、名人に叩かれたら美しい音が出るというのでは、ピアノの製造に骨を折る甲斐はない。もしそんなことが実在するならば、ピアノ会社は全く浮ぶ瀬がなくなる。ピアノがきまれば、絃も、槌も、鍵盤も、ペダルも、みなきまってしまう。いかにパデレウスキーでも、その指の力で絃を変えたり槌を変えたりするような魔術は使われない。この場合に変化し得るものは、話を常識的に簡単にして見れば、ただ槌と絃との距離を槌が動く時間だけである。つまり槌の速さだけが人々で変えられる唯一のものである。この距離をsとし、槌の動く時間をtとすれば、槌が絃を叩つ途端の ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] はピアノの音を変えうるただ一つの要素である。そしてこの ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] をきめるものは、簡単にいえば、鍵盤が沈む時の角速度である。今パデレウスキーが鍵盤を押し沈めた時と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたとしたら、この猫の足のタッチからは、パデレウスキーが指のタッチと同じピアノの音が出たにちがいない。
これより外にまだピアノの音を変える秘密があると主張する人は、まずその人の方から、その要素をあげて説明して下さい。私にはそんな事は考えられない。もちろんピアノの音の強さに従って、ピアノの音の波形は、つまり倍音の関係は、多少ちがってくる。その事は相当に面倒な物理上の問題で、私は別の機会に述べる。そしてそれだからこそ私は前にことわっている。パデレウスキーの指と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたらとことわっている。もちろん猫にはそれは出来ないかも知れない。しかしパデレウスキーのタッチの時の鍵盤の角速度を計っておいて、それと同じ角速度を機械で与えたとしたら、その時は機械は十分パデレウスキーを真似る事が出来る。
タッチというような怪しげなものが、如何に音楽批評家やピアノ師匠の迷信に過ぎないものであるかは、も少し外の方面のピアノの音を考えて見るといよいよ明瞭になる。
B 音の混雑
ピアノの音は実際変るべき理由のあるところで、実際いろいろに変っている。そしてその事は音楽批評家にもピアノの師匠にも、まだあまり考えられていない。
私は楽器は大体二つに分類されると思う。楽譜のとおりに弾けば、大体で楽譜のとおりの音の出る楽器と、楽譜のとおりに弾いても楽譜のとおりの音の出ない楽器である。風琴やヴィオリーネは前の方で、ピアノは後の方である。ピアノで或る曲を弾けば、その音は楽譜に書かれた音とはかなり違ったものになる。そしてそれは誰が弾いても同じ事である。
たとえば今 c'[#「c'」は縦中横] の音を或る速さで二度つづけて弾いたとする。楽譜には同じ c'[#「c'」は縦中横] の音符が二つ書いてある。そしてこの二つの音は全く同じ c'[#「c'」は縦中横] の音だと批評家も師匠も聞いている。この事を疑った批評家をまだ私は知らない。
しかしピアノの構造の上から考えて見れば、そんな事はあり得ない。この二つの音の間には、音の混雑から起る相当な音色のちがいがなくてはならない。ピアノは音響学的には甚だ粗末な機械で、音を止めるものはただ一箇のダンプァーだけである。そしてそのダンプァーは柔かなフェルトで出来ていて、平台ピアノではその重さで上から絃を押えるだけの仕掛になっている。しかもそのダンプァーの位置は絃の端の方である。しかし長いピアノの絃には相当な張力がかかっているし、絃の質量も相当ある。今その絃が或る程度のエネルギーをもって鳴り初めたとしたら、あんなダンプァー一つくらいでその振動が一瞬間にぱたりと止まるわけがない。その止まりきらないところを第二回目に叩いたとしたら、音は当然混雑するはずである。
もしダンプァーが絃の振動を一瞬間に止めたとしても、ピアノには響板というも一つの振動体がある。この響板はピアノの音には絶対的に必要なものである。しかしこれにはダンプァーも何もない。全く鳴らしほうだいの鳴りほうだいである。どんなパデレウスキーでも一タッチごとにピアノの下にもぐって、その響板の音を止める事は出来ない。或るエネルギーをもって響板が鳴り初めたら、それが全く静止するまでは次の音は叩かれないはずである。響板が鳴り止む前に次の音を叩けば、その音は必ず前の音と混雑するに決っている。
これは事実上その音を撮影して見ればわかる事である。
c'[#「c'」は縦中横] の音を二度つづけて叩いた時の第二回目の
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