音楽界の迷信
兼常清佐

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)些《すくな》くも

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「|速く《アレグロ》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
−−

    1 迷信

 音楽の世界は暗黒世界である。いろいろな迷信が縦横にのさばり歩いている。
 私はピアノを例に取る。私は楽器のうちで一番ピアノを愛する。私のこの愛するピアノを今しばらく例に取って見る。
 批評家はほとんど例外なしに言う。――パデレウスキーやコルトーのような大家の弾くピアノの音は非常に美しい。彼らのタッチは実に巧妙である。この美しい音は全く彼らのタッチから来たものである。彼らの鍛錬を重ねた指の技巧をもってしてこそ、はじめてこの美しいピアノの音が出る。普通の人々がそのタッチをまねて見ようと言っても、それは全然出来ない事である。この美しいタッチの技巧こそ、彼ら世界の大演奏家の生命である。そしてこのような名人の美しいタッチの音を楽しむ事こそ、高級な音楽の鑑賞である。――
 これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな怪しげな事があり得ようはずがない。ピアノさえ一定すれば、パデレウスキーが叩いても、私がこの万年筆の軸で押しても、同じ音が出るにきまっている。名人のタッチなどというようなわけのわからないものがピアノの上に存在しようとは本気では考えられない。これが迷信である。
 ピアノの先生はほとんど例外なしに言う。――お前はタッチを勉強しなくてはいけない。ピアノの鍵盤の打ち方こそピアノの技術の真生命のあるところである。鍵盤の打ち方ひとつで音はいろいろに変る、打ち方の上手な人の指からは、美しいピアノの音が出る。お前は手の形、指の形などを十分によく注意して、よく先生の言うとおりに直して、いいタッチの出来るように勉強しなくてはならない。先生に習わないで自分一人でやったのでは、指や手の形がわるくて、ピアノの音が美しくない。――
 これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな出鱈目な事があり得ようはずがない。パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。どの指で、どんな形で、どんな打ち方で叩こうと、そんな事は音楽の音とは別に何の関係もない。それはただ先生が御愛嬌にそんな事も言って見るだけのものである。それを本当と思いこんで、真面目になって、その通りをピアノの上でやって見ようとするのは、本気で考えると頗る馬鹿げた話である。それが迷信である。音楽はただ音楽である。楽器は楽器より以上の何物にもなり得ない。ピアノはピアノで出来るより以上の仕事は決して出来得ない。私はこのお話で多少でも本当の事と迷信との間に境界線が引けたとしたならば、些《すくな》くも私が朝夕弾いているこの一台のピアノだけは、非常にそれを喜んでくれるであろう。

    2 事実

 ピアノを弾くという事は、一体人間のどんな種類の仕事であるか、同じような仕事のタイプライターとどう違うものであるか、――そのような問題は人の考えるほど簡単なものでない。それに正しく答えようと思えば、その仕事のいろいろな部分が正しく数量的に記述されていなければならない。その記述という事は決して容易なものではない。私共のその実験はまだ半途である。
 ピアノという楽器はどんな機械的な性質のものであるか、――これも重要な問題である。しかしこれも人間の仕事を数量的に記述する事がむずかしいように、むずかしい。或る程度を越えては今のところ不可能である。
 ハママツのヤマハ・ピアノ会社は、一昨年航空研究所のスハラ博士の超高速度活動写真でピアノの槌の動き方を撮影した。一秒五〇〇〇こまの超高速度フィルムが竪台と平台とで二本ある。このフィルムを読んで見ることは、他の機会で述べるように、数学的には非常に興味がある。しかしそれでもまだ遥かに材料が足りない事と、このフィルムは写真の視野が狭くて、ただ槌の頭だけしか見えないから、他の部分との関係がわからない事とで、これから直接に、十分にピアノの機構を説明するというわけには行かない。
 このヤマハ・ピアノ会社の実験は、ニッポンで今までピアノについて試みられた一番大がかりなものであろうが、それにしてもその結果はただピアノの槌の運動の一部分を説明したに過ぎない。ピアノくらいの機械でも、それを完全に記述し、何から何まで説明することは、想像以上に困難な仕事である。
 しかしピアノについては、何から何まで説明し尽されないにしても、その一部分でも説明されたら、それだけ音楽という事実の真相が明るみに出される事に
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
兼常 清佐 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング