なる。私は今多少でもそれを試みてみたい。
A タッチの技巧
音楽批評家やピアノの師匠が熱心に主張するようなタッチの技巧というものが、事実上に本当にピアノの上に存在するか、ピアノは名人が叩くのと、私が万年筆の軸で押すのとで、本当に、事実上、音が違うものであるか。
常識で考えて、そんな事実の存在しない事は明瞭である。これがピアノのようなものであるからこそ、そんな迷信が今日でも平気で行われている。他の機械なら、誰もそんな事を真面目に考える人はない。
しかし手数をさえ厭わなかったら、それは実験して見る事が出来る。ピアニストに実際にいいタッチを試みてもらって、その音を撮影すればいい。そして、そのあとでその同じ鍵盤を万年筆の軸で押すなり、あるいは猫に鍵盤の上を歩かせるなりして、その音を撮影して、この二つがはたして違っているか、どうかを、比べて見ればいい。この場合に撮影機械のほうの条件を一定にしておけば、この二つの写真は大体で客観的な事実を物語っていると思ってもよかろう。
イグチは勇敢にこの実験に応じた。私は理化学研究所のタグチさんの実験室で彼のタッチを実験した。私共はピアノを置く場所を急造した。下に畳を敷き、周囲をネルの壁でかこった。その上を毛布の幕で被った。そしてピアノの音をトーキーのフィルムに撮影した。イグチは彼の持ついろいろのタッチの技巧をこのピアノの上で試みた。また私共はイグチの指の動き方を高速度活動写真でも撮影した。このような実験は必ずしも非常に正確だとは言えないかもしれない。しかし物の傾向を暗示するには十分である。そしてもちろん私の仕事はこれで終らない。これはほんの予備試験である。
その音の写真はどれもみなほとんど同じ音質を示している。イグチが最悪と考えたタッチからでも、最良と考えたタッチの音が出ている。逆に言えば、イグチが半生を費して鍛錬に鍛錬を重ねたタッチの技巧も一番素人くさい、一番悪い打ち方の音も本質的には別に何の変りもない。
ニッポン当代の名演奏家、第一流のピアニスト、イグチは、どんなタッチの技巧をもってしても、ピアノの音波の形を変えることは出来なかった。それならば、そのイグチの出来ない事を外の誰がするか。
イグチの師匠イーヴ・ナットはするか。イグチの尊敬するピアニスト、ゴローヴィッツはするか。あるいはパデレウスキーやコルトーならするであろうか。
イグチに出来ないものなら、パデレウスキーにも出来ない。出来る道理がない。イグチの代りにパデレウスキーをつれてきて、この実験をやったとしても、結果は同じような事になるにちがいない。
ピアノがきまれば、その音はきまる。どんな粗製のぼろピアノからでも、名人に叩かれたら美しい音が出るというのでは、ピアノの製造に骨を折る甲斐はない。もしそんなことが実在するならば、ピアノ会社は全く浮ぶ瀬がなくなる。ピアノがきまれば、絃も、槌も、鍵盤も、ペダルも、みなきまってしまう。いかにパデレウスキーでも、その指の力で絃を変えたり槌を変えたりするような魔術は使われない。この場合に変化し得るものは、話を常識的に簡単にして見れば、ただ槌と絃との距離を槌が動く時間だけである。つまり槌の速さだけが人々で変えられる唯一のものである。この距離をsとし、槌の動く時間をtとすれば、槌が絃を叩つ途端の ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] はピアノの音を変えうるただ一つの要素である。そしてこの ds/dt[#「ds/dt」は分数、縦中横] をきめるものは、簡単にいえば、鍵盤が沈む時の角速度である。今パデレウスキーが鍵盤を押し沈めた時と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたとしたら、この猫の足のタッチからは、パデレウスキーが指のタッチと同じピアノの音が出たにちがいない。
これより外にまだピアノの音を変える秘密があると主張する人は、まずその人の方から、その要素をあげて説明して下さい。私にはそんな事は考えられない。もちろんピアノの音の強さに従って、ピアノの音の波形は、つまり倍音の関係は、多少ちがってくる。その事は相当に面倒な物理上の問題で、私は別の機会に述べる。そしてそれだからこそ私は前にことわっている。パデレウスキーの指と同じ角速度で猫の足が鍵盤を押し沈めたらとことわっている。もちろん猫にはそれは出来ないかも知れない。しかしパデレウスキーのタッチの時の鍵盤の角速度を計っておいて、それと同じ角速度を機械で与えたとしたら、その時は機械は十分パデレウスキーを真似る事が出来る。
タッチというような怪しげなものが、如何に音楽批評家やピアノ師匠の迷信に過ぎないものであるかは、も少し外の方面のピアノの音を考えて見るといよいよ明瞭になる。
B 音の混雑
ピアノの音は実際変るべき理
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