の音でさえタッチの区別の出来ないのに、どうしてあれほど複雑な曲でタッチの変化が耳にわかるか。そしてわからないものをわからないと言うのが、何故批評家の恥になるか。わからないものを正しくわからないという方がかえって批評家の権威でないか。
また私共聴衆は何故に、名人のタッチなどいう曖昧至極なものに感心したような顔をしなくてはならぬのであろうか。それは半分は英雄崇拝の感情を、仮に「美しいタッチ」という言葉で言い表しただけのものであろう。英雄崇拝の感じはどうもやむをえないものとすれば、それを言い表す美しいタッチという言葉が間違っている。音楽にあまり経験のない人は、どうしても演奏家を目で見て楽しもうとする。何かの理由で偶然その演奏家が世間的に有名な人だとしたら、それに英雄崇拝の感じが混ってくる。目がある以上は目で演奏家の姿を見てそれを楽しんでも悪くはあるまい。ただ演奏家の手つきが、ぐにゃぐにゃとして、さも柔かそうに動くから、そのピアノからも柔かそうな音が出るだろうと思うのは、それがそもそも迷信のはじまりである。
ピアノは結局音を聞く楽器である。私共が本気になってピアノの音だけを聞くとしたならば、今までのような荒唐無稽なタッチなどいう事はとくの昔になくなっていいはずである。
ピアノ演奏家に許される事は、ただ楽譜の不備を実際的に補う事だけである。楽譜が音楽を記述する方法は、音の高さを除いては全然非数量的である。ただ大体「|速く《アレグロ》」とか「|遅く《アダジオ》」とか、「|強く《フォルテ》」とか「|弱く《ピアノ》」とか言うだけである。どのくらい速くか、どのくらい強くか、数量的には書かれない。楽譜はちょうど寸法の書いてない洋服の註文書のようなものである。その寸法を自分の考えで入れて、実際洋服に仕立てるだけがピアノの演奏家の仕事である。その寸法に多少の独創があると言えばあるくらいのものである。もし楽譜が改良されて、作曲家の考えを数量的に書くようになれば、ピアノの演奏家には全く独創という事はなくなる。全く機械と同じものになる。
そして今のピアノの稽古は、表情を習うのが高級な稽古だと言って、弟子は主としてその肝心な寸法を先生に習い、その通りを一生懸命模倣しようとする。それでは全然機械である。全然芸術の独創というようなものはない。
これが私の見たピアノの音楽である。私はピアノの演奏家にならなかった事を非常に幸福に思っている。
3 私の考
読者諸君、諸君は私のこの話を聞いても、にわかに同意しないであろう。諸君はきっとこう言うであろう。――お前の言う事も本当かも知れないが、それでも何となくまだ何か後に残っているような気がする。まさかパデレウスキーが鍵盤を叩いた音と猫が鍵盤を蹈んだ音が同じだとは、どうも何となくそう思われない。お前の話こそどこか間違っていないか? お前の話は実際本当の事か?
私自身はこの話は実際本当だと思っている。音楽というものは、結局こんなものだと思っている。私自身の常識はこの私の話をよく承認してくれる。この反対の事は私には考えられない。
諸君は何故に演奏家などいう怪しげな中間の存在物にそんなに心が惹かれるのか。音楽が成立するためには、演奏家は明かに第二義的な存在ではないか。
ショパンは美しい曲を作った。そしてプレエルのピアノでそれを弾いた。恋人のジョルジュ・サンドはその美しさに胸を躍らせた。同じように今ここにヤマハやカワイのいい音のするピアノがある。ショパンの全集がある。そしてその美しさに胸を躍らす私共聴衆がある。それで音楽は完成していないか。
ショパンのタッチが柔かで綺麗だったと伝説には謳われている。しかしイグチのタッチは柔かで綺麗でないか。イグチで悪いなら――パデレウスキーでもいい。コルトーでもいい。ショパン以後百年も技巧ばかり磨いて来た今の時代のピアノ演奏家が、まさかショパンほどもピアノが弾けないとは思われない。そして曲が同じなら、誰が弾いたところで、結局同じ事である。もし個人特有なタッチの技巧というものがないならば、あとは僅に曲の速度や、強弱の変化や、音の均合などが個人的な特徴になって来るだけである。
そんな僅な事はどうでもいい事ではないか。同じ曲を少し速く弾こうが、遅く弾こうが、そんな事が私共に一体何の芸術的な意味を持つか。ショパンやリストの世にも美しい作曲は、僅ばかり速く弾かれようが、強く弾かれようが、そんな取るにも足らぬ小さい事ぐらいで、毫もその価値は変らない。特にその速さも、強さも、均合も、みな先生の真似事だとなったら、私にはますますそんな馬鹿々々しい事に係り合おうという気は起らなくなる。私はいい音のするピアノがあればいい。ショパンやリストの全集があればいい。弾くのはイグチ一人で十分であ
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