に関係するから、音楽としては誠に重要な一問題である。たとえばショパンの『プレリュード』Db[#「Db」は縦中横] 長調で、はじめ Db[#「Db」は縦中横] の部分をpで弾いたあとで、中の c#[#「c#」は縦中横] の部分をfで弾いたら、その部分のピアノの音が一体で早く出すぎると感じなくてはならぬはずである。
あるいは今ショパンの『エテュード』As[#「As」は縦中横] 長調――作品二五の第一――を弾くとする。その第一七小節から五小節の間は右手が六つの十六分音符を叩く間に左手は四つの十六分音符を叩く。この曲をクリンドヴォルト版に従って四分音符一〇四の速さで弾くとすると、この小節の左右の指の喰違いの時間は、ざっと〇・〇五秒である。槌の動きの遅いピアノでは、これはほとんどピアノのそのものの音の遅れの時間に近づいてくる。もし左手も相当強く叩けば、この喰違いの時間は非常に曖昧になる。もしここをペダルをかけて弾くなら、この時間は決して普通の人の耳にはいらない。
誰でも弾くツェルニーの『四〇練習曲』の第二六A長調は、ペテルス版では曲の速さが八分音符三つが八八となっている。この場合では右手と左手の喰違いはピアノそのものの時間の遅れより早くなる。もし先生がぼろぼろピアノでこの曲を弟子に教えながら、お前の左手と右手との時間が悪いなどと言うなら、そんな先生は明かに出鱈目という先生である。音ははっきり聞いていない証拠である。
これはほんの一例である。ピアノにはこのような事はまだまだ沢山ある。これはみな十分明瞭な事実である。それにこの明瞭な事実は批評家にも、ピアノの先生にも一般に聞かれていないで、そして存在の曖昧至極なタッチの巧拙という事だけがひとり明瞭に聞き出されていいものであろうか。一体そんな事で私共の常識が承知するだろうか。
諸君の中にはタッチの稽古をした人もあろう。あんな先生の言う事は真面目になって本気で聞いていられるものでない。それは大抵音と関係しない事である。音の出る前の指や手の形の事である。たとえば指を鍵盤に直角に曲げて叩けという類である。指紋を取るように指を平に延べたらいけないという類である。しかしこれは単に分力の問題である。そして鍵盤の沈む角θは普通5度内外であるから、この場合 [#ここから横組み]sinθ=0[#ここで横組み終わり] あるいは [#ここから横組み]cosθ=1[#ここで横組み終わり] と見て少しもさしつかえない。指の曲げ方などは常識で考えてピアノを弾く事には問題にならないくらい僅なものである。各※[#二の字点、1−2−22]勝手に弾きやすいように弾けばそれでいい。その外いろいろなタッチの教は、結局手踊の一種である。甚しいのになると、音が出た後の手の力の抜き方や、手くびの動かし方がタッチと言われている。そんな事を本気になって聞いている方も悪い。もう音の出てしまった後の鍵盤で、どんな手踊をしてみたところで、その音と何の関係もあるわけがない。ピアノ演奏家の生命といわれているタッチの技巧は、まず大抵こんなようなものである。これが迷信でなくて何であろう。
円タクの運転手は円タクの構造をよく知っているはずである。ハンドルを握る手つき一つで円タクの速力が非常に変るなど言って、ハンドルの上で手踊をするような運転手の車には、あぶなかしくて乗っていられない。ピアノも一つの機械である。演奏家はその機械の運転手である。それにピアノ演奏家はピアノの構造にまるで無関心である。機械運転の手つき一つで音が変るなどと平気で言っても世間に堂々と通用する。音楽の世界が迷信の世界である証拠である。
これはピアノ演奏家や音楽批評家が本気で音を聞かない事から起るのであろう。多くの音楽学校には聴音という時間がある。これはゆっくり時間をかけて和絃を聞きわける練習である。和絃を聞きわける事は、ただ普通な音楽的な練習である。音波の性質の変化を聞きわけるような微細な音響学的な仕事に比べたら、はるかに容易である。その聴音の時間には6の和絃6‐4との和絃を聞き間違えたくらいな学生が、卒業して先生になった途端に弟子をつかまえて、お前のタッチの音は――などと言ったのでは、およそ話の辻褄が合わない。それは手踊の師匠や茶の湯の師匠のように、ただ手つきを目で見て言っているだけの事である。
そして批評家はこの事について何故に心にもない事を言わなくてはならないか。ピアノの c'[#「c'」は縦中横] の鍵盤をあるいは指で叩いたり、あるいは万年筆の軸で押したり、あるいは猫の足に蹈ませたりするのを隣の部屋で聞いて、それが一々区別出来るかと問われたら、誰も容易には区別出来るとは考えられまい。答えられると思う人は、勇敢にまず自分でやってごらんなさい。そしたら一度で合点が行く。一つ
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