も知れません。
私はレコードを人に聞かしてもらう時に演奏家の技術を考えたことはまだ一度もありません。私がレコードを聞くのは、曲を聞くだけです。私一人ではどうしても演奏して見ることの出来ないような曲をレコードに演奏してもらって、それを聞いて音楽を理解しようとしたり、あるいはそれを享楽したりしたいためです。そのためにはレコードは非常に結構なものだと私は思っています。
*
レコードというものは非常に面白いもので、音楽をただ純粋に耳からだけ聞かせます。レコードでは演奏家を想像する事は出来ても実際見ることが出来ません。これは実際の演奏を聞くのとは全く違った状態です。演奏会では私共は眼で演奏者を見ます。そして眼から来る印象は知らず識らずのうちに私共に深い印象を与えます。それが名人崇拝の一つの動機になっている事は疑をいれません。それをレコードやラジオのように全く視覚に訴えない音楽が普及したとしたら、音楽の様子は多少変らないでしょうか。演奏家に対する崇拝の観念が多少変らないでしょうか。
一例としてコルトーのショパンの『エテュード』を聞いてみます。実際の演奏会ならコルトー一人してあ
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