くつき合った事がないからよく知りませんが、たまにその話を聞くと、誰もみな大変むずかしいことをいっているようです。その一例は、レコードを通じて、演奏家の技術の優劣巧拙を論じているのが普通なようです。たとえばコルトーの弾いたショパンの『エテュード』のレコードを聞いて、コルトーのピアノのタッチは非常にきれいで、この演奏は名演奏であるというようなものです。
 私はそういう話を聞くと、いろいろ不思議に思う事があります。レコードというものは一種の電気技術の結果で、その中に録音せられた音も、それから出る音も、決して生のままの音ではありません。電気機械のいろいろの条件でいろいろ変るものです。あのレコードを非常に高級な増幅装置をもった再生機で聞く人と、小さいポータブルぐらいで聞く人と同じようにコルトーのタッチというものが論じられるでしょうか。あるいはレコード一枚をとれば、どんな条件の下で聞いても決して変らないというような神秘的な音楽の要素があるものでしょうか。あるとすれば、それは一体技術的にはどんなものでしょうか。レコードで演奏家の技術の巧拙を論じる事は、レコード鑑賞家がもう一度よく考えて見てもいい事か
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