レコード蒐集
兼常清佐

 何だかレコード会社のまわし者のいいそうな事をいうようですが、しかしレコードがこんなに沢山売れて、社会一般に普及したことを私は非常に結構な事だと思います。
 レコードは蒐集慾の対象物としてはなはだ都合のいいものです。お金のある人はそれでかなり蒐集慾を満足する事が出来ます。その点でレコードは音楽会のプログラムを集めるよりもよほど価値があります。お前はベートーヴェンのジンフォニーを聞いたかと問われた時、プログラムを出したのではなんとなく貧弱ですが、我輩はメンゲルベルクとワインガルトネルとフルトウェンゲルとストコウスキーとムックと――実際そんなものがあるかどうか知りませんが、――を持っているといえばいかにも豪壮に聞えます。それでレコードはだんだん広く売れてゆきます。なにはともあれ、はなはだ結構な事です。しかし私は実は余り蒐集慾がないので、レコードは人のところに行って聞かせてもらって、せいぜいそれを褒めて、後でビールでも一杯おごってもらう事にしています。そんな心がけですからレコードの事については実は余りよく知りません。

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 レコードの蒐集家とも私は多くつき合った事がないからよく知りませんが、たまにその話を聞くと、誰もみな大変むずかしいことをいっているようです。その一例は、レコードを通じて、演奏家の技術の優劣巧拙を論じているのが普通なようです。たとえばコルトーの弾いたショパンの『エテュード』のレコードを聞いて、コルトーのピアノのタッチは非常にきれいで、この演奏は名演奏であるというようなものです。
 私はそういう話を聞くと、いろいろ不思議に思う事があります。レコードというものは一種の電気技術の結果で、その中に録音せられた音も、それから出る音も、決して生のままの音ではありません。電気機械のいろいろの条件でいろいろ変るものです。あのレコードを非常に高級な増幅装置をもった再生機で聞く人と、小さいポータブルぐらいで聞く人と同じようにコルトーのタッチというものが論じられるでしょうか。あるいはレコード一枚をとれば、どんな条件の下で聞いても決して変らないというような神秘的な音楽の要素があるものでしょうか。あるとすれば、それは一体技術的にはどんなものでしょうか。レコードで演奏家の技術の巧拙を論じる事は、レコード鑑賞家がもう一度よく考えて見てもいい事か
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