も知れません。
私はレコードを人に聞かしてもらう時に演奏家の技術を考えたことはまだ一度もありません。私がレコードを聞くのは、曲を聞くだけです。私一人ではどうしても演奏して見ることの出来ないような曲をレコードに演奏してもらって、それを聞いて音楽を理解しようとしたり、あるいはそれを享楽したりしたいためです。そのためにはレコードは非常に結構なものだと私は思っています。
*
レコードというものは非常に面白いもので、音楽をただ純粋に耳からだけ聞かせます。レコードでは演奏家を想像する事は出来ても実際見ることが出来ません。これは実際の演奏を聞くのとは全く違った状態です。演奏会では私共は眼で演奏者を見ます。そして眼から来る印象は知らず識らずのうちに私共に深い印象を与えます。それが名人崇拝の一つの動機になっている事は疑をいれません。それをレコードやラジオのように全く視覚に訴えない音楽が普及したとしたら、音楽の様子は多少変らないでしょうか。演奏家に対する崇拝の観念が多少変らないでしょうか。
一例としてコルトーのショパンの『エテュード』を聞いてみます。実際の演奏会ならコルトー一人してあれだけの曲を弾かなくてはなりません。しかしレコードなら演奏家の姿がわからないから二人して弾く事も出来ます。右手と左手に一人ずつかかれば、さしもむずかしいこの曲もかなり楽に弾かれます。ただコルトーがそれを指揮さえすればいい事になります。実際この演奏には到るところに音の長さの伸び縮みがあります。それが非常に目立ちます。また音の強弱の差も相当鮮かに出ています。このようなものはコルトー自身が考えたもので、他の人にやらせたらまた違ったようにやるでしょう。だからそれだけをコルトーが指揮さえすれば、――そしてその指揮の程度はそれが電気的に録音され、再生せられて、音楽として効果のあるという範囲で十分です、――実際の演奏は助手を使ってやっても出来るでしょう。それでもその僅かな強弱や長短の工夫はコルトー自身のものですから、それをコルトーの演奏だといっても差しつかえありません。そして僅かにこれだけの事がコルトーのものだともいえるでしょう。詮じつめてみると、結局演奏家の世界はそんなところではないでしょうか。
私が、レコード会社の社長でしたら実際これだけの事は実行してみましょう。それは恐らく音楽のために何かを
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