けれど、たつた一人の弟とも、心からの友達とも思つてゐる私の身になると、たつた一度……たつた一度でよいから「済まなかつた。今度は人間に生れてこいよ」と云つてもらひたい気がした。
「ミーコ、あの人達を恨まないでやつておくれよ。おまへを憎んで轢いたんぢやない。悪意があつてやつたわけぢやないんだからね……私とおまへはずゐ分仲よしだつたね。私の思つてることをおまへはみんな知つてゝくれたのね。……だけどおまへはもういゝ所へ行かなきやならないのよ。神様のいらつしやるところへ……。でも又私たちはそこであへるんですつて……。待つてゝね。ミーコ。私も今に行くからね」と人がゐなくなると、そんなことを、「みの」の耳もとでさゝやいてみるのだつた。
 みの[#「みの」に傍点]は黙つてきいてから、
「えゝ、わかりましたよ。きつと待つてますよ」と云ふやうに私をみ上げた。

 獣医さんが自転車でかけつけてくれたのは、もうひかれてから一時間半もたつた四時半ごろだつた。獣医さんが聴診器を出して、「みの」にさわらうとしたら、今迄あんなにおとなしくて、私が頭をなぜても毛一本動かさなかつた「みの」が、鼻の頭に皺をよせて、舌の色までかへて、猛然とうなつて反抗を示したのにはびつくりした。
「もう、とてもかみつく元気はないと思つてましたが、中々もつて気のつよい犬ですね」と獣医さんも舌をまいて感心してゐる。
 しかし、かみつくことは身体の自由がきかないので出来なかつた。いつもなら、もうかみつかれてゐる所である。
「この傷だけならなほりますが、内出血がひどいから、とても駄目ですね」と云ひ、傷の方の手当の道具をもつて来てないからと、直ぐ又、自転車で引返して行つた。
 日が西に傾いて夕方の風が冷くなつた。私は地面へ坐つて、筆に含ませた水を「みの」の口へそゝいでやつてゐた。
 あんなに欲しがつてゐた水だつたけど、もう「みの」には飲む力がなかつた。
「みの」は相変らずの姿勢で何かを思ひ出してるやうな、ます/\深い輝きをもつた黒い瞳を、じつと暮れかける空の向ふの方に向けてゐた。
 死んぢやつたんぢやないかしら、と思ふ程、その眼はしづかで動かなかつた。
 私は、やつぱりかういふきれいな夕暮れの戸山ヶ原の草の中に、二人で坐つてゐた、あの頃の「みの」を思つてゐた。
 あの時のみの[#「みの」に傍点]の眼は、やつぱりこんなにきれいだつた
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