いゝや。お前が甘やかすのだ。」
「さあ。それはさうでございますが、旦那様、あなたが廃《よ》せと仰やれば、致しません。(間《ま》)。薔薇を切つて参りませうか。」
「うん。」主人はくるりと背中を向けて内へ這入つた。
     ――――――――――――
 午食《ひるしよく》の一時間前に、ボヂル婆あさんは、お嬢さんのお好な、刺繍のある着物を着て、薔薇を切りに花壇へ出た。
 中庭の花壇では足りないので、花園の花壇のをも切つた。主人が幾ら厭な顔をしても為方《しかた》がないのである。
 ボヂルといふのは、この別荘に附物の婆あさんである。御本宅で、お嬢さんがまだ生れない内から勤めてゐた。十年前に奥様が亡くなつてからは、この婆あさんが内ぢゆうの事を、誰が言ひ附けたともなく、引き受けてしてゐるのである。
 食堂には、食卓の準備がしてある。そこへ婆あさんは籠に一ぱい薔薇を持つて来て、飾り始めた。食卓に載せる、小さい花瓶が六つあるのに、二輪づつ花を插して、二つづつ並べて、卓の中通りに置いた。実に美しい。それから盤に花を盛つたのを卓の四隅に置く。それから枝を卓の上一ぱいにばら蒔く。主人とお嬢さんとの膝に掛ける巾《きれ》が、鵠《こう》の鳥《とり》の形に畳んである、その嘴のところに、薄赤の莟を一つづつ挾んだ。それからお嬢さんのナイフやフオオクの置いてあるところへは、中に寄せて小さい花を、外廻りに大きい花をばら蒔く。実に立派である。それでもまだ気が済まないのか、どの鉢の上にも、控鈕に插すやうな花を一つづつ載せた。
 主人は食堂へ出て来た。燕尾服に白襟を附けて、綬《じゆ》を佩《お》びてゐる。
 主人は卓の前に立ち留まつて、卓と婆あさんとを見較べてゐる。
 婆あさんは主人の顔をぢつと見てゐる。
「どうもこんな風では」と、主人がつぶやいた。
「それでも旦那様もお召をお改め遊ばしたではございませんか」と、婆あさんが云ふ。
 暫く二人は睨み合つて黙つてゐた。
「あの、シヤンパンのコツプを出しました」と、婆あさんが口を切つた。
「うん。出してあるな。」
「最初に鶉《うづら》を上げる事になつてゐます。お嬢様のお好な。」
「ふん。そんなに甘やかしてどうするのだ。」
「でもあなたが廃せと仰やれば致しません。」
 主人は時計を出して見た。もう時刻迄に二三分しかない。お嬢さんが今にも帰つて来る筈である。
「お前降りて行
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング