るのだい。まだ薔薇を持つて来させるのか。」
「好いから、お父う様、あなたはそこに入らつしやいよ。」
「それでもお前はまるで薔薇に埋まつてしまふぢやないか。」
「わたし埋まりたいのだわ。」
家来は自動車の明りを付けるものを脱《はづ》して、その跡へ、花の一ぱい咲いてゐる薔薇の枝を三本插した。
お嬢さんは傍にあつた薔薇の枝を一掴み取つて、婆あさんに渡して、かう云つた。
「これをねえ、わたしの体の周囲へ振り蒔いておくれ。それから幌の上にもね。」
「それではお嬢様、あんまり。」
「それならお父う様、蒔いて下さい。」
「なんだ。そんな馬鹿げた事を、己まで一しよになつてして溜まるものか。」
「そんならわたし自分でするわ。」
お嬢さんは花をむしつて、自分の周囲と幌の上とに蒔き散した。薔薇の中にもぐつて坐つてゐるやうである。
「それからねえ。ヰクトルやあ。お前はこの薔薇を控鈕《ボタン》の穴にお插し。ヤコツプやあ。お前もお插し。」
技手も、家来も微笑《ほゝゑ》みながら胸を飾つた。
お嬢さんは帽子の帯に一枝插して、胸にも花を一つ插した。
「さあ、これで好いから出掛けるよ。」
「そんな風をして町へ出ては困るぢやないか」と、主人が云つた。
「だつて立派ぢやありませんか。」
「なんだ。まるで仮装舞踏に行くやうだ。町のものが呆れるだらう。」
「それは町の人は気違ひだと思ふでせう。好いわ。ヤコツプやあ。さあ、車をお出しよ。ボヂルやあ。お午の時テエブルの上を薔薇で飾つて置くのだよ。好いから薔薇を沢山お切りよ。」お嬢さんは笑ひながらかう云つた。「そんならお父う様、行つて参ります。さやうなら。ヤコツプや。お出しよ。」
技手は柁機を廻した。自動車はゆつくり花壇の周囲《まはり》に輪をかいて、それから速度を早めて、跳《をど》るやうに中庭を走つて出て、街道に続く道の、菩提樹の並木の間に這入つて行く。
石段の上には主人とボヂル婆あさんとが残つて、見送つてゐる。
「まあ、なんといふ可哀《かはい》いお嬢様でございませう。あの薔薇の中に埋まつて入らつしやつたお美しさつてございませんね。」ボヂルはかう云つた。
「馬鹿な奴だ」と、主人は云つた。
「どれ、お午のテエブルに載せる薔薇を切つて参りませう。」
「どうも甘やかして育てたもんだから困る。」
「さやうでございますね。旦那様は随分お可哀がり遊ばします。」
「
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