車に乗つた。併し乗つたかと思ふと、突然叫んだ。
「おう。籠々。フランチスカをばさんに上げる果物の籠があつたよ。ボヂルやあ。」
 主人は石段の上で足踏をしてゐる。
「いや早。女といふものは始末の悪いものだな。」
 それでもお嬢さんは、主人の顔を見上げて笑つて、指で接吻の真似をして見せる。
 ボヂル婆あさんが、年寄つた足で駈けられるだけ駈けて、果物の籠を持つて来た。
「さあ、こゝに置きます。」息を切らしながらかう言つて、籠をお嬢さんの脇に据ゑた。
「もう出掛けられるだらうな」と、主人が云つた。
 併しお嬢さんはこの時又叫び出した。花壇の薔薇が目に留まつたのである。
「わたしあの薔薇を持つて行つてよ。ヰクトルや。走つて行つて、あれを沢山切つてお出。」
「遅くなるよ。」
「だつてをばさんに薔薇を上げなくては。花も持たないで行つては、をばさんがなんと仰《おつし》やるか知れないわ。ヰクトルや。もう一本お切りよ。もう一本。沢山切るのだよ。」
 家来は両手に握り切れない程薔薇を持つて来た。しなやかな枝が、花の重みで垂れてゐる。
 主人は石段の上で足踏をしてゐる。婆あさんは、旦那が本当におこらねば好いがと心配して身を顫はしてゐる。
 お嬢さんは突然大声で笑つた。
「お父う様。早く内へ這入つて戸をお締めなさいよう。わたしの今思ひ附いた事は、お父う様が見て入らつしやつては出来ない事なのですから。」
「なんだ。己《おれ》は這入らないぞ。己の門《もん》の石段に位は己だつてゐても好い筈だ。」主人は頗る威厳を保つて言つた積りである。
 家来は薔薇をお嬢さんの脇へ、果物の籠と一しよに置いた。その時お嬢さんは家来の耳に口を寄せて、なんだか囁いだ。
 家来は心配げに主人の顔を見た。
「早くよう。ヰクトルやあ。両方の耳に、追懸《おひかけ》のやうに附けるのだよ。」
 家来の口の周囲《まはり》には微笑の影が浮んだ。遠慮がし切れなかつたのである。「でも、お嬢様、馬は附けてございません。」
 お嬢さんは大声で笑つた。
「ほんとにねえ。馬はゐなかつたつけねえ。わたしすつかり忘れてゐてよ。そんなら好いから、あの明りを附けるものを取つてしまつて、あそこへ薔薇の枝をお插しよ。」
 家来は躊躇した。
「早くおしよ。早く、早く。」
 家来は又花壇へ帰つて行つて、薔薇を切つてゐる。
 主人は急いで石段を降りて来た。
「何をす
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング