つてシヤンパンを出して来ないか。」
婆あさんは主人の顔を意味ありげに見た。どういふ考で言ひ附けるかと疑ふ様子である。
「旦那様はいつも御自分でお出し遊ばすではございませんか。」
主人は輪に通した鍵を婆あさんに渡した。
「これで出して来い。一番上の棚の右の方だ。」婆あさんは鍵を受取つた。敢て反抗はしない。併し主人の魂胆を見抜いたのである。なんでも主人は婆あさんを出し抜いて、一人で階段の上に迎へに出て、燕尾服を着たところを、娘に見せる積りらしい。
「それからな、シヤンパンは氷で冷さなくてはな。」
「それはさうでございますとも。」
婆あさんは不平なので、戸を荒々しく締めて出て行つた。
主人は微笑みながら婆あさんを見送つて、揉手をしてゐる。今度こそはあの婆あさんを旨く出し抜いて遣つたと思ふのである。
――――――――――――
ボヂル婆あさんは穴倉の梯子の中程に、左の手にシヤンパンの瓶を持つて、右の手で欄干を掴まへて立つてゐる。
この時恐ろしい叫声が二声聞えた。気の違つたやうな、荒々しい叫声である。別荘の部屋々々に響き渡つて、それを聞くものは胆を冷して、体が凝《こ》り固まつてしまひさうであつた。丁度その跡で、殆ど同時にどしんと物の打《ぶ》つつかる音がして、がらがらめりめりといふと思ふと、家中の壁が地震のやうに震動した。何か大きな動物が、家に打つつかつて死んだかと思ふやうである。
その跡はひつそりした。暫くしてから人の叫んだり、泣いたり、走り廻つたりする音が聞えて来た。そして婆あさんが梯子を登つて、玄関まで来た時には、お嬢さんの死骸が床《とこ》の上に横はつてゐた。その傍には主人が跪《ひざまづ》いてゐる。燕尾服に白襟を附けて、綬を佩びて。
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お嬢さんと家来のヰクトルと二人で、自動車に乗つて帰つたのである。技手は一時間も立つてから、歩いて帰つて来た。
技手の云ふには、どうも自動車の機関が狂つてゐたとしか思はれない。なぜといふにヰクトルは自分と同じ位自動車を使ふ事を知つてゐるから、止められなくなる筈がないと云ふのである。
併しなぜ二人が、技手を出し抜いて先へ帰つたかといふ事は、技手も説明することが出来なかつた。
仲働きのカレンが見てゐた時、二人は前の馭者台に並んで乗つてゐて、その車が恐ろしい速度で中庭の芝生を通つて、薔
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