まあ、それはなんと云つても好いとして、僕はこれから全然新しい系統を立てる積りだ。それがどの位造作もないと云ふ事が、君には想像が付くまいね。新しい系統を立てるには、誰でも世間の交通を断つて、どこかへ引つ込めば好い。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中に這入つても好い。そこで目を瞑《ねむ》つて考へると、直ぐに人類の楽園を造り出す事が出来る。さつき君がこゝから出て行つた跡で、僕は直ぐに発明に取り掛かつたが、午後の中に系統を三つ立てた。今丁度四つ目を考へてゐた所だ。無論現存してゐる一切の物は抛棄しなくてはならない。なんでも構ふ事はないから破壊するのだね。そんな事は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中から遣ると造作はないよ。万事※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中から見れば、外で見るより好く見えるよ。それはさうと僕の今の境遇にも、贅沢を云へば多少遺憾な点はあるさ。なに、けちな事なのだがね。先こゝは少し湿つてゐて、それからねと/\してゐる。それに少しゴムの匂がする。丁度去年まで僕の穿いてゐた脚絆のやうな匂だ。苦情を云つたところでそんなもので、それ以上には困る事はないよ。」
 己は友人の詞を遮るやうにして云つた。「君ちよつと待つてくれ給へ。君の今云つてゐる事は、僕には実に不思議で、自分で自分の耳を疑ふ位だよ。そこで少くもこれだけの事を僕に聞かせてくれ給へ。君はもうなんにも食はずにゐる積りかね。」
「いやはや。そんな事を気にしてゐると思ふと、君なんぞは気楽な人間と云ふものだね。実に浅薄極まるぢやないか。僕が偉大な思想を語つてゐるのに君はどうだい。君には分からないから云つて聞かせるが、偉大な思想は僕を※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]飫《えんよく》させる。そして僕の体の周囲《まはり》の闇を昼の如くに照らしてゐるのだよ。さう云ふわけだから、実はどうでも好いのだが、御承知の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の持主は、存外好人物で、あの人の好いおつ母さんと云ふ女と相談して、これから毎朝《まいてう》※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の吭《のど》へ曲つた金属の管《くだ》を插してその中からコオフイイや茶やスウプや柔かにしたパンを入れてくれると云ふ事になつた。もうその金属の管も註文した様子だ。なんでもこの近所に住つてゐる同国人が拵へてくれるさうだ。ドイツ人だね。併し実は無用の贅沢物さ。一体※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものは千年生きると云ふ事だが、それが本当なら、僕も千年生きる積りだ。あゝ。さうだつけ。もう少しで忘れるところだつた。君に頼んで置くがね、あしたで好いから誰かの博物書を調べて見てくれ給へ。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は何年生きるかと云ふ問題に就いてだね。事に依ると僕は何か洪水以前の古い獣と間違へて考へてゐるかも知れないからね。唯僕にも多少懸念がない事もないよ。御承知の通り僕は服を着てゐる。ロシア製の羅紗で裁縫した服だね。それから足には長靴を穿いてゐる。どうもそのせいで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が僕を消化する事が出来ないらしい。それに僕は生きてゐて、意志の力を以て消化に反抗してゐるのだ。なぜと云ふにあらゆる食物《くひもの》が消化せられた後になんになると云ふ事を、君だつて考へて見給へ。僕がさう云ふ末路を取りたくないのも、無理はあるまい。さうなつては僕の恥辱だからね。そこで僕の懸念と云ふのは、どうもこの服の地質が千年持たないだらうと云ふのだ。それがロシア製の下等羅紗と来てゐるから、猶更早く朽ちてしまふかも知れない。そこでこの外部の防禦物がなくなつてしまふと、如何に意思を以て反抗して見ても、とう/\かなはなくなつて、消化せられてしまひはすまいかと思ふのだ。まあ、昼の内は飽くまで意志を緊張して、消化せられずにゐるとしても、夜になつて眠つてゐる内に僕の体が馬鈴藷《じやがいも》や挽肉と同一な運命に陥るまいものでもない。万一さう云ふ事があるまいものでもないと云ふ唯それだけの考が、実に不愉快だよ。これに附けても、政府は是非税率を改正しなくてはならない。さうして英国製の羅紗の輸入を奨励するのだね。英国製の羅紗なら、ロシア製の物より堅牢だから、又誰かが服を着て※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の中へ這入つて来た時、その服が自然の悪影響に抗抵して長く持つだらうと云ふものだ。何《いづ》れ僕は税率改正の意見を然るべき政治家に話す積りだ。無論同時に二三の新聞の記者にも話して遣る。彼等に敷衍《ふえん》させて遣るのだね。新聞記者の僕の議論を賛成する事は独り税率問題ばかりではあるまいと思ふ。何れこれからは毎朝《まいてう》新聞記者が群をなして来て、このブリツキの盤の周囲《まはり》を取り巻いて、最近の海外電報に対する僕の意見を聞くだらう。まあ、僕の一言一句を、彼等が争つて書き留めると云ふ風になるに相違ないね。要するに僕の前途は光明で満たされてゐるよ。」
 己は腹の中で、「譫語《うはこと》だ譫語だ」と思ひ続けてゐる。暫くして己は友人に聞いて見た。「ところで君、自由に就いてはどう考へてゐるね。兎に角君は今真つ暗い所に囚はれてゐるぢやないか。人間と云ふものは自由を得て始めて満足すべきものだとは思はないかね。」
 イワンは意外にもかう云つた。「君は馬鹿だよ。自由だの独立だのと云ふ事は、それは野蛮人の愛するものだ。智者は秩序を愛するね。もし秩序がないとなると。」
「君、それは」と、己はイワンの詞を遮らうとした。
 イワンは己の喙《くちばし》を挾《さしはさ》んだのを不快に思つたと見えて、叫ぶやうに云つた。「まあ、黙つて聞き給へ。僕の精神が今のやうに高尚に活動した事はこれまでにないのだ。唯この狭い住家にゐて、僕が多少気にしてゐるのは、諸新聞の文学欄の批評と、それから諷刺的の雑誌の記事と、この二つだね。こゝへ見に来る人間の中にも軽はずみの奴が交つてゐる。馬鹿がゐる。焼餅焼がゐる。一言これを掩へば虚無主義者がゐる。さう云ふ奴が滑稽の方へ僕を引き付けるかも知れない。併し僕にはこれに対する手段があるよ。兎に角僕は輿論が早く聞きたい。新聞がなんと云ふか早く見たい。君、あす来る時は諸新聞を揃へて持つて来てくれ給へ。」
「それは揃へて持つて来るよ。」
「併し実はまだ早いな。あしたの新聞に僕の事が論じてあらうと期待するのは少し無理だ。大抵このロシアでは新事件の論評は、四日目位立つてからでなくては出ないのだからね。それから君は今後は毎晩裏口から僕の所へ来る事にしてくれ給へ。君に僕の書記を勤めて貰ふ積りだからね。君が持つて来た新聞を読んで聞かせてくれる。さうすると僕がそれに対する意見を述べて君に筆記させる。それから必要な処分があれば、それを君に命ずるのだ。何より大切なのは最近の外国電報だから、それを忘れないやうに持つて来給へよ。最近のヨオロツパの電信だね。それは是非毎日いるよ。まあ、けふはこれだけにして置かう、君ももう眠たくなつただらうから。もうそれで好いから君は帰り給へ。そしてさつき僕の言つた批評の事を好く考へて見てくれ給へ。実は僕はさほど批評をこはがつてはゐない。批評家だつて皆窮境にゐるのだからね。兎に角こつちに智慧があつて、それで品行を好くしてゐればあいつ等が持ち上げてくれるに極まつてゐる。まあ、ソクラテエスでなければ、ヂオゲネスと来るのだ。或ひは両方を兼ねたやうな風にするが好いかも知れない。まあ、将来人類の為めに働くには、僕はさう云ふ立場にゐて働く積りだ。」
 女が年を取つていく地がなくなると秘密と云ふものを守る事が出来ないと云ふが、イワンの軽卒に、相手がなんと思つても構はずに、自分の議論を急いで話さうとする様子は、丁度その女のやうに思はれた。なんでも余程高い熱が出てゐさうである。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の内部の構造に就いて、イワンの言つた事なぞは、殊に怪しい。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]だつて胃も心の臓も肺も無いと云ふ事は受け取りにくい。あんな事を言ふのは、人に誇る為めに出たらめを言ふのではあるまいか。事に依つたら、己をへこます為めに言ふ気味もあるかも知れない。併しイワンは病気に相違ない。病人は大事に取り扱つて遣らなくてはならない。かうは思ふものゝ正直を言へば己は昔からイワンと云ふ男を気に食はなく思つてゐた。己は子供の時から、この男に見くびられて、余計な世話ばかり焼かれてゐた。一その事絶交してしまはうかと思つた事は何度だか知れない。それでもとう/\今まで附き合つてゐるが、それにはいつも返報をして遣る時期が来るかも知れないと、心の奥で殆ど無意識に思つてゐるらしくも見える。実にイワンと己との交際は不思議だと云はなくてはならない。なんだか二人の間の交誼の十分の九は忿懣から成立つてゐるとでも云ひたい位である。それに拘はらず己はこの晩にはイワンに優しく別を告げた。
 ※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の持主のドイツ人は己の側へ歩み寄つて、「あなたのお友達は豪《えら》い人ですね」と云ひながら、己を見せ物場の外へ送つて出た。ドイツ人は己とイワンとの対話を始終注意して聞いてゐたのである。
 己はドイツ人のまだ何か言ひさうにしてゐるのを遮つて聞いて見た。「それはさうと忘れない内にあなたに聞いて置きたいのですが、もしあの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を買ひ取るものがあつたら、幾ら位で手放して下さるでせうか。」
 己のこの問を発したのを、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の中にゐるイワンも聞いて、己よりも熱心にドイツ人の答を待つてゐるらしかつた。察するにイワンの心では、ドイツ人に余り低い価《あたひ》を要求して貰ひたくはなかつたゞらう。兎に角己が問を発した跡で、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中から、豚のうなるやうな、一種特別な謦咳《しはぶき》が聞えた。
 ドイツ人は己の問に答へたくない様子であつた。そんな事を問うて貰ひたくはないと、腹を立てたらしかつた。顔が※[#「火+(世/木)」、第3水準1−87−56]《ゆ》でた鰕《えび》のやうに赤くなつて、彼奴《きやつ》は叫んだ。「わたしが売らうと思はない以上は、誰だつてわたしの所有物を買ひ取る事は出来ませんよ。そこでこの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を売ると云ふ気はわたしには無いのです。よしやあなたが百万タアレル出すと云つても、わたしは売りません。けふなんぞは見料が百三十タアレル取れたのです。あしたは一万タアレル取れるかも知れない。追々毎日十万タアレルも取れるやうになるかも知れない。いつまでも売るわけには行きませんよ。」
 ※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中でイワンが愉快げに笑ひ始めた。
 己は腹の立つのを我慢して、成るべく冷静な態度を装《よそほ》つてこの気の変になつたドイツ人に道理を説いて聞かせた。その要点はかうである。お前の思案は好くあるまい。今一度考へ直して見るが好からう。殊に今の計算はどうも事実に背いてゐるやうだ。もし一日に十万タアレルの見料が這入るとすると、四日目には此ペエテルブルクの人民が皆来てしまはなくてはならない。皆来てしまへば、それから先には収入が無くなる筈だ。その上|生《しやう》あるものは神の思召次第で、いつ死ぬるかも知れない。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]だつてどうかしてはじけまいものでもない。中に這入つてゐるイワン君だつて病気
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