になる事もあらう。死なないにも限らない。まづざつとこんな事を言つた。
ドイツ人は十分考へたらしく、とう/\かう云つた。「いやわたしは薬店《やくてん》から薬を買つて※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に飲ませて、死なないやうにしますよ。」
「薬が利けば好いが、それは受け合はれないでせう。それはどうでも好いとして、あなたは警察や裁判所から彼此言はれる事があるかも知れない。そこを考へて見ましたか。早い話があの腹の中にゐるイワン君には、御承知の通り法律上立派な細君がありますよ。あの細君が法廷に訴へて夫の返却を請求したらどうです。あなたは収入の事ばかり考へて、金持になる料簡でゐるやうですが、イワン君の細君に償金を出すとか、恩給を仕払ふとか云ふ事を考へて見ましたか。」
ドイツ人はきつぱり答へた。「いや、そんな事は考へてゐません。」
所謂《いはゆる》おつ母さんが側から、意地悪げな調子で相槌を打つた。
「そんな事を考へて溜まるもんですか。」
「さうでせう。さうして見るとあなた方の考は周到だと云はれますまい。未来がどうなるか分からないのに、うか/\としてゐるよりは、今の内に一度に金を手に入れた方が好くはないでせうか。金高《かねだか》は小さくても、確実に手に入れる事が出来たら、その方が好いでせう。無論こんな事をわたしが言ふのは、唯個人の物好で言ふに過ぎないのですから、誤解しては行けませんよ。」
ドイツ人は所謂おつ母さんを引つ張つて、見せ物場の一番奥の隅の所に連れて行つた。一番大きい、一番醜い猿の籠に入れてある所である。そこで二人は囁き合つてゐた。
イワンは意味ありげな調子で己に言つた。「まあ、どうなるか見てゐ給へ。」
己はうんとドイツ人をなぐつて遣りたかつた。それから所謂おつ母さんを、亭主よりも一層ひどくなぐつて遣りたかつた。最後に所謂おつ母さんよりも一層ひどくなぐつて遣りたかつたのは、高慢なイワンである。
まだドイツ人の返事を聞かないうちに、己はその位に思つてゐたが、貪慾なドイツ人の返事は又想像より甚しかつた。ドイツ人は上さんと十分相談したものと見えて、見せ物場の隅から出て来てかう云ふ請求をした。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の代価としては五万ルウベルを最近の内国債証券で払つて貰ひたい。それからゴロホワヤの石造の家屋を一軒貰ひたい。但しその家屋には薬局が一つ付いてゐなくてはならない。それから今一つは自分をロシアの陸軍大佐にして貰ひたいと云ふのである。
イワンが凱歌を奏するやうに叫んだ。「それ見給へ。僕の思つた通りだ。陸軍大佐に任じて貰はうと云ふのは行はれない事だが、その外の要求は至当な事だよ。中々わけの分かつた男で、自分の所有品の値踏をする事は心得てゐるね。兎に角何事に依らず経済問題が先に立つのだて。」
己は腹を立てゝドイツ人に言つた。「一体あなたは陸軍大佐になつてどうしようと云ふのですか。それにそんな上級の軍人にならうと云ふには、これまでどんな履歴があるのですか。どんな軍功を立てたのですか。どこの戦争に参与して、ロシアの本国の為めにどんな手柄をしてゐますか。まさか気が変になつてゐるのではないでせうね。」
ドイツ人はさも侮辱せられたと云ふやうな態度で答へた。
「わたしを狂人だと云ふのですか。わたしは狂人どころではない。普通よりも気がしつかりしてゐるのだ。さう云ふあなたこそどうかしてゐると見えます。まあ、考へて御覧なさいよ。腹の中に生きた官吏を入れてゐる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を持つてゐて、人に見せる事の出来る人間なら、大佐位にしたつて好いです。このロシアに一人でも生きた官吏を腹に入れてゐる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を持つてゐて、人に見せる事の出来るものがありますか。わたし位智慧があれば、大佐になるには十分です。」
己は体が震ふほど腹が立つたので、「イワン君、さやうなら」と言ひ放つて、見せ物場を駆け出した。己は殆ど我慢がし切れなくなつてゐた。ドイツ人もドイツ人だが、イワンもイワンである。二人とも途方もない夢を見てゐるではないか。それを考へると、どうも我慢がし切れないのである。
見せ物場の外へ出て、冷たい夕暮の空気に触れたので、己の腹の立つのが少し直つた。己は唾《つばき》を一つして、荒々しい声で辻馬車を呼んで、それに飛び乗つて内へ帰つた。そして直ぐに着物を脱いで床に這入つた。
横になつてからつく/″\考へて見ると、イワンが己を書記に使ふと言つた時、己はそれに反対しなかつた。さうして見ると、もう書記になる事を承諾したも同じ事である。これから先毎晩あの見せ物小屋へ出掛けて行つて、あいつの饒舌る事を書くのだらうか。その苦みをする報に何があるかと云ふと、唯友人の為めに尽すと云ふ満足を感ずるだけの事である。己は腹が立つて、自分で自分をなぐりたくなつた。実際己はランプを吹き消して、掛布団を掛けた跡で拳骨《げんこつ》で自分の頭や体中をこつ/\打つた。十分打つてしまふと、少し気が鎮まつたので、己は寐入つた。疲れ切つてゐるのでぐつすり寐たのである。それから何疋とも知れない猿共が体の周囲《まはり》に飛び廻つてゐる夢を見た。尤も明方になつてからは別なゆめになつた。それはエレナの夢であつた。
四
猿の夢を見たのは前日に見せ物小屋で、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と一しよに飼つてある猿を見たからである。それとは違つて、イワンの妻君エレナを夢に見たには、別にわけがある。
己はこの場で正直に言つてしまふ。己はあの女を愛してゐる。かう云つても、己の詞を誤解して貰つては困る。己があの女を愛すると云ふのは、親父が娘を愛すると同じである。どうしてあの女を愛してゐると云ふ事が己に分かつたかと云ふに、己は度々あの女の小さい頭を引き寄せて、接吻をして遣りたく思つたのに気が附いたのである。接吻をするにはあのふつくりした桃色の頬つぺたでも好いと思つた。併し己はそんな事を実行した事はない。白状の序《ついで》に今一歩進んで言へば、己はあの唇に接吻する事も厭ではなかつた。実にあの唇は可哀《かはい》らしい。どうかしてにつこり笑ふと、赤い唇の間から、すぐつた真珠のやうな歯が二列に並んで見える。見えるのではない。上手に見せるのである。あの女は随分好く笑ふ女だ。イワンはあいつを甘やかして「可哀いノンセンス」と云ふが実に適当な評だと云はなくてはならない。あの女は菓子である。ボンボンである。それ以上のものではない。そんな女であるのに、イワンが突然それをロシアのユウジエニイ・ツウルにして見ようとするのはわけが分からない。それはどうでも好いとして、己の夢は、猿だけは別として、愉快な印象を残した。そこで前日の出来事を一々繰り返して考へて見て、それからけふは役所の出掛けに、エレナを訪問しようと決心した。家の友達たる資格を持つてゐる己だから訪問するのが義務だと云つても好いのである。
エレナは所謂《いはゆる》「小さいサロン」にゐた。これは夫婦の寝間の前にある小部屋の名である。小さいサロンと云ふからには、別に大きいサロンがあるかと思へばさうではない。今一つのサロンも矢張小部屋である。エレナはふわりとした寝巻を着て小さい長椅子に腰を掛けて、前に矢張小さい卓を構へて、矢張小さい茶碗でコオフイイを飲んでゐた。コオフイイの中へは小さいビスケツトの切をくづし入れて飲むのである。エレナは相変らず様子が好いが、けさは少し物案じをしてゐるらしく見える。
己の這入つて来たのを見て、気の散つてゐる様子で微笑《ほゝゑ》んで云つた。「おや。あなたですか。あなた親切気のない方ね。まあ、そこへお掛けなさい。そしてコオフイイでもお上がんなさい。あなたきのふはどこへ入らつしやつたの。晩にはどこにお出なさいましたの。仮装舞踏へは入らつしやらなかつたのね。」
「それではあなたはきのふ仮装舞踏にお出でしたか。一体僕は舞踏会には行かない流義です。それにゆうべは俘《とりこ》になつてゐる人の所にゐなくてはならなかつたのです。」かう云つて己は溜息を衝きながら、面白くない表情をして茶碗を受け取つた。
「どこですと。誰の所に入らつしやつたのですと。俘になつてゐるとは誰の手ですの。ああ、さうさう。あの人の事ですか。何をしてゐましたの。退屈だと云つてゐましたか。それはさうとわたしあなたに伺ひたい事があつてよ。どうでせう。わたし今の身の上で離婚の訴訟を起す事は出来ないでせうか。」
「離婚ですと。」かう云つた己の手からは茶碗があぶなく落る所であつた。そして腹の中では「あの髭黒奴《ひげくろめ》がそんな考を出させるのだな」と思つて胸を悪くした。
髭黒と云ふ男がある。八字髭が黒いから、己がさう云ふ名を付けてゐる。この男は建築局の役人で、近頃頻にエレナの所へ尋ねて来る。それがエレナに頗る気に入つてゐるらしい。察するに髭黒奴は昨晩どこかでエレナに逢つただらう。舞踏会ででも出逢つたか、それともこの部屋に来て話をしたのかも知れない。兎に角ゆうべあたり入智慧をしたのだなと思ふと、己は腹が立つてならなかつた。
エレナは急にじれつたいやうな様子をして言ひ出した。「だつてあなた考へて御覧なさいな。どう云ふものでせう。あの人は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中にゐて、事に依つたら生涯帰つて来ないかも知れないでせう。それなのにわたしがこゝに此儘ぢつとしてゐて待ぼけにならなくてはならないのでせうか。一体夫と云ふものは内にゐる筈のものではないでせうか。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中なんぞに澄ましてゐて好いでせうか。」
この詞は己にはなんだか人が言つて聞かせたのを受売をしてゐるやうに聞えた。そこで己は少し激して云つた。「そんな事を仰やつても、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に呑まれたのは予期すべからざる偶然の出来事ではありませんか。」
己が反対しさうになつたのを見て、細君も腹立たしげに己の詞を遮るやうに饒舌《しやべ》り出した。「あら、さうぢやなくつてよ。どうぞ黙つてゐて下さい。わたしそんな事は聞きたくないのですからね。ほんとにあなたのやうな方もないものです。いつでもわたしに反対ばかりなさるのね。あなたのやうに相談相手にならない方つてありませんわ。わたしに好い智慧を貸して下すつた事はないぢやありませんか。まるで縁のない人でも、かう云ふ場合には離婚の理由が十分成り立つものだと云つて聞かせましたわ。宅が月給を取らないだけでも十分の理由になるさうぢやありませんか。」
己は殆ど荘重な語気で云つた。「エレナさん。一体今のお詞はたしかにあなたの口から出たのでせうか。どこかの悪党があなたに入智慧をしたのではないでせうか。それに俸給が出なくなる位な事実が、離婚の理由なんぞになるものですか。まあ、考へて御覧なさい。イワン君はあなたの事を思つて病気にもなり兼ねない様子ですよ。気の毒ではありませんか。ゆうべも、あなたの方では舞踏会なんぞへ行つて楽んでゐたのに、イワン君はさう云つてゐました。万已むを得ざる場合には、正妻たるあなたの事だから、一しよに※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中に住つて貰ふやうにしようかと云つてゐました。それは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹が存外手広で、二人どころではない、三人でもゐられさうだからと云ふのです。」かう云つて、己は序《ついで》だから、昨晩の対話の概略を話して聞かせた。
細君は不思議がつて聞いてしまつて云つた。「おやおや、まあ。あなた真面目でわたしにもあの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中へ這ひ込めと仰やるの。あの中に宅と一しよにゐろと仰や
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