ぐれに呑んでくれたので、多年の宿望が一時に達せられたと云ふものだ。何かこの口で饒舌れば、人がそれを直ぐに筆記する。その内容を批評する。人口に膾炙《くわいしや》する。印刷する。世間に啓示《けいし》して遣るのだ。どれだけの才能を放棄して置いて、危く※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腸《はらわた》に葬つてしまふところであつたと云ふ事を、世間の奴等が理解するだらう。これ程の人物なら、大臣にでもすれば好かつたとか、国王にでも封《ほう》ずれば好かつたとか云ふだらう。君だつて考へて見給へ。例のガルニエエ・パジエエだなんぞと云ふ人間に、こつちがどれだけ劣つてゐると云ふのだ。まあ、妻とこつちとで相呼応して遣るのだ。こつちは智慧で光る。妻は美貌と愛敬とで光ると云ふわけだ。成程、あんな優れた貴夫人だから、あの人の奥さんになつたのだらうと云ふものもある。いや、あの人の奥さんだから、あんな優れた貴夫人に見えるのだと、その詞を修正するものもある。兎に角君、妻にさう云つてくれ給へ。アンドレイ・クラエウスキイの編纂した百科辞典があるから、あれをあす早速買ふが好い。何事が話に出て来ても、差支へなく返事をしなくてはならんからね。それから是非毎日サント・ペエテルブルク通信の社説を読んで、それをヲロス新聞の社説と比べて見なくては行けない。その辺も好く言つて聞かせて置いてくれ給へ。多分こゝの持主が承諾して時々は妻のサロンへ、この※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を持出すやうになるかと思ふ。さうなれば立派な座敷の真ん中に、このブリツキの盤を据ゑさせて、こつちは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中から気の利いた事を饒舌るのだ。無論朝の内から腹稿《ふくかう》をして置く事も出来るからね。政治家が相手になれば、政策上の意見を聞かせて遣る。詩人が相手になれば韻文で饒舌つて遣る。貴夫人が相手になれば対話の巧妙な所と興味のある所を見せ付けて遣る。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中にゐれば、嫌疑を蒙る虞《おそれ》はないから、十分伎倆を発揮する事が出来ると云ふものだ。普通の人間に対しては、模範になつて遣る。神の摂理の下に意志を屈すると云ふ謙徳を見せて遣る。妻は立派な文藝家に為立《した》てゝ遣る。そしてその作を公衆に説明して聞かせて遣る。こつちが妻にしてゐる以上は余程の長所がなくてはならん。世間でアンドレイ・アレクサンドロヰツチユをロシアのド・ミユツセエだと云ふのが尤《もつとも》なら、妻はロシアのユウジエニイ・ツウルだと云はれなくてはならん。」
イワンは随分無意味な事を饒舌る男ではあつたが、この長談義を聞いた時は、どうもひどい病気にでもなつてゐはすまいかと、正直を言へば、己は思つた。少くも熱が高くて譫語《うはこと》を言つてゐるやうに思はれた。実は不断のイワンだつて、こんな調子な所があるのだが、只、なんと云つたら好からう、顕微鏡で二十倍位に廓大して見るやうであつた。
己は成るべく優しい声で云つた。「君、そんな風にしてゐて長生が出来ると思つてゐるかね。一体君、たしかに健康でゐるのかい。何を食べてゐるね。寝られるかね。息は出来るかね。いろんな事を聞くやうだが、実に非常な場合だから、友人の立場として聞いて見たいのだがね。」
イワンは腹立たしげに答へた。「それは君、全く余計な好奇心と云ふものだよ。それ以上になんの意味もない質問だ。併しそれに拘らず言つて聞かせよう。君はこの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中でどうしてゐるかと問ふのだね。第一に意外なのは、この※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものは体の中がまるで空虚なのだ。それ、あのモルスカヤだの、ゴロホワヤだの、それから僕の覚え違へでないなら、あのヲスネツセンスキイ区にもあるが、好く大きな店の窓に飾つてあるゴム細工があるね。あの大きい空虚な袋のやうな工合だよ。さうでなかつたら、君、考へて見たつて分かるだらうが、かうしてゐられたものではないからね。」
己は不思議に思はずにはゐられなかつた。
「さうかねえ、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものはそんなにからつぽなものかね。」
イワンは厳格な調子で、詞に力を入れて云つた。「全然空虚だよ。而も察するにそれが自然の法則で、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものはさうしたものなのだらう。そこで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものは、あの鋭い牙の植ゑてある、大きな顎と、長い尾とから成立つてゐる。それが※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の全体だと云つても好いのだ。そこでその二つの部分の中間には、大なる空隙がある。それが硬ゴムに類した物質で包まれてゐるのだ。事に依つたら実際硬ゴムから成り立つてゐるかも知れんよ。」
己は殆ど自分を侮辱せられたやうに感じて、イワンの詞を遮つた。「併し君、肋《あばら》はあるだらう。胃だの腸だの肝臓だの心臓だのもあるだらう。」
「そんな物はこゝにはない。絶無だ。察するに昔からそんな物がこゝにあつた事はないだらう。そんな物があるやうに言つたのは、軽卒な旅人《りよじん》が漫《みだり》に空想を弄《もてあそ》んで、無中に有を生じたのだらう。丁度ゴムで拵へた枕をふくらますやうに、僕は今この※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]をふくらます事が出来るのだ。この※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中は実に想像の出来ないほど伸縮自在だからね。君に好意があつて、僕の無聊を慰めてくれようと思ふなら、直ぐにこゝへ這入つて貰ふだけの場所は楽にあるのだよ。実は万止むを得ない場合には、内のエレナにこゝへ来て貰はうかとも考へて見たよ。兎に角※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の内部がこんな風に空虚になつてゐると云ふ事は、学問上の記載に一致してゐるやうだ。まあ、仮に君でも頼まれて、新に※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふものを製造しなくてはならないと云ふ場合を考へて見給へ。その時第一に起る問題は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の生活の目的はなんであるかと云ふ問題だらう。そこでその答は明白だ。人間を呑むのが目的である。さうして見ると※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が自己の性命に危険を及ぼさずに、人間を呑む事が出来るやうに拵へなくてはならない。それには※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の内部をどうしたら好いかと云ふ事になる。その答は前の答より一層容易だね。即ち内部を空虚にすれば好いのだ。ところが君も御承知の通り自然は空虚と云ふものの存在を許さない。それは理学が証明してゐる。そこで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を空虚に製造して置けば、自然がそれを空虚の儘で置く事を許さないから、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の功用が生じて来る。空虚なものを、空虚の儘で置く事は、自然の単純な法則が許さないから、そこへ何物かが這入つて来なくてはならない。そこで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]はなんでも手当り次第に呑まなくてはゐられない事になる。どうだね、分かるかね。さう云ふわけで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は人間を呑むのだ。詰まり空虚の功用の法則だと云つても好い。この法則は無論あらゆる生物に適用すると云ふわけには行かない。例之《たとへ》ば人間なんぞはそんな風に出来てはゐない。人間の頭は、空虚なれば空虚なだけ、物をその中へ入れようと云ふ要求を感じない。併しそんなのは破格と見做《みな》さなくてはならないのだね。こんな道理は、僕には今火を観るよりも明かになつてゐる。今僕が君に話して聞かせる事は、皆僕の智恵で発明したのだ。僕が自然の臓腑の中に這入つてゐて、自然の秘密の淵源に溯つてゐて、自然の脈搏を聞きながら自分で考へ出したのだ。語源学上に考へて見ても、僕の意見に一致してゐる所がある。この動物の名だがね、これは大食と云ふ意味に相違ない。クロコヂルと云ふ語は多分イタリア語のクロコヂルロから来てゐるだらう。このイタリア語はフアラオ王がエジプトを領してゐた時代のイタリア語だらうと思ふ。語源を調べて見たら、多分フランス語のクロケエと云ふ語と同じ来歴を持つてゐるだらう。今君に話しただけの事は、この盤をエレナの夜会の座敷へ運ばせた時、最初の講演として、公衆に向つて話す積りだ。」
己は「これは熱病だ、余程熱度が高いに相違ない」と思つて心配でならないので、覚えずかう云つた。「君、何か少し気の鎮まるやうな薬を飲まうとは思はないかね。」
イワンはひどく己を馬鹿にしたやうな調子で、答へた。「馬鹿な。それに仮に下剤なんぞを用ゐるとした所で、どうもこの場合でそれが利いてくれては少し困るよ。まあ、君の事だから、その位な智慧を出すだらうと、僕も予期してゐたのだ。」
「それはさうと薬にしろ食物《たべもの》にしろ、君はどうして有り付く事が出来るね。けふなんぞも午食《ひるしよく》はしたかね。」
「午食なんぞはしない。併し僕はちつとも腹はへつてゐない。多分今後もなんにも食はなくても済みさうだ。なにもそれに不思議はないよ。僕の体が※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の内部を全然充実させてゐるのだから、それと同時に僕自身も腹がへると云ふ事はないのだ。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]だつてもこれから先|餌《ゑ》を遣るには及ぶまい。詰まり※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の方では僕を呑んでゐて満足してゐるし、僕の方では又※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の体からあらゆる滋養を取つてゐるわけだね。君は話に聞いてゐるかどうか知らないが、器量自慢の女は或る方法を以て自分の容貌を養ふものだ。それはどうするのだと云ふに、晩に寝る時体中に生肉を食つ付けて置く。それから翌朝になると香水を入れた湯に這入つて綺麗に洗ひ落す。さうするとさつぱりして、力が付いて、しなやかになつて、誰が見ても惚々するのだ。それと同じ事で、僕は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の滋養になつてやるから、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の方から滋養物を己に戻してくれる。詰まり互に養ひ合つてゐるのだ。無論僕のやうな体格の人間を消化すると云ふ事は出来ないから、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]も多少胃が重いやうには感じてゐるだらう。胃は無いのだがね。それはまあどうでも好い。そこを考へて僕はこゝで余り運動をしないやうにしてゐる。なに、運動しようと思へば、勝手だがね。僕は唯人道の考から運動せずにゐて遣るのだ。併し兎に角勝手に動かずにゐるのだから、僕の現在の状態を不如意だと云へば、先この点位が思はしくないのだ。だからチモフエイが僕の事を窮境に陥つてゐると云つたのも、形容の詞だと見れば承認せられない事もないね。かう云つたからと云つて僕が困つてゐると思ふと違ふよ。僕はこれでもゐながらにして人類の運命を左右する事が出来るものだと云ふ事を証明して見せる積りだ。全体当節の新聞や雑誌に出てゐる、あらゆる大議論や新思想と云ふものは、あれは皆窮境に陥つてゐる人間が吐き出してゐるのだ。だからさう云ふ議論を褒めるには、動かない議論だと云ふぢやないか。
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