時我れに返つて、両手で頭を押へて叫んだ。「ああ、内の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]が。ああ、内の可哀いカルルが。おつ母さん、おつ母さん、おつ母さん。」
 その時奥の戸が開いて、所謂《いはゆる》おつ母さんが現はれた。頬つぺたの赤い年増で、頭に頭巾を着てゐる。その外着物は随分不体裁である。この女は小屋の持主の女房だが、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を子のやうにして、カルルと云つてゐたので、持主がおつ母さんと呼んだと見える。年増は亭主の周章してゐるのを見て、顔色を変へて駆け寄つた。
 そこで大騒が始まつた。細君エレナは嘆願するやうな様子で、小屋の持主の傍に駆け寄つたり、年増の傍に駆け寄つたりして、「切り開けて、切り開けて」と繰り返した。誰が切り開けるのだか、何を切り開けるのだか分からないが、夢中になつて我を忘れて叫んでゐる。
 併し小屋の持主夫婦は細君にも己にも目を掛けずに、ブリツキの盤に引つ付いて、鎖で繋がれた犬のやうに吠えてゐる。
 持主は叫んだ。「助かるまい。もう直ぐにはじけるだらう。人一疋、まるで呑んだのだから。」

前へ 次へ
全98ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング