女房も一しよになつて叫んだ。「どうしよう、どうしよう。内の可哀いカルルちやんが死ぬだらう。」
 ドイツ人は又叫んだ。「あなた方は我々夫婦を廃《すた》れものにしておしまひなさる。これで夫婦は食へなくなります。」
「どうしよう、どうしよう」と女房は繰り返す。
「切り開けて、切り開けて。あの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹を切り開けて。」細君は嘆願するやうな、命令するやうな調子で、ドイツ人の上着の裾に絡み付いて、かう云ふのである。
 ドイツ人は叫んだ。「あなたの御亭主が内の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]をおこらせたのだ。なぜおこらせたのです。もしそれで内のカルルがはじけたら、あなたに辨償して貰はなくてはなりません。裁判に訴へます。わたしの子ですから、一人子ですから。」
 このドイツから帰化した男の利己主義と所謂おつ母さんの冷刻とを見て、随分腹が立つたと云ふ事を、己は白状せずにはゐられない。それにエレナがいつまでも同じ要求を繰り返してゐるのも、己には気になつてゐる。丁度この新道の隣で誰やらが素食論の演説をしてゐる。そいつが
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