。」
「無論です。新聞を持つて行く筈ですから。」
「ほんとに御親切です事ね。新聞を持つて入らつしやつたら、少しの間《ま》側にゐて、読んで聞かせて下さいましな。それからけふはもうわたしの所へはお出なさらなくつても好くつてよ。わたし少し頭痛がしますし、事に依つたら誰かの所へ遊びに行くかも知れませんの。まだ分かりませんけれど。そんなら、さやうなら。あなた浮気をなさるのぢやありませんよ。」
「ははあ、今夜は髭黒が来るのだな」と腹の中で己は思つた。
 役所では己は誰にも気取られないやうにしてゐた。世間に心配と云ふものがあるか知らと云ふやうな顔をしてゐたのである。そのうちふと気が付いて見ると、けふに限つて或る進歩派の新聞が忙しげに手から手へ渡されてゐる。そして同僚が皆厭に真面目な顔をしてそれを読んでゐる。最初に己の手に渡つたのはリストツク新聞である。この小新聞はどの政党の機関と云ふでもなく、広く人道を本として議論をすると云ふ風である。さう云ふわけで同僚はいつも馬鹿にしてゐるが、其癖読まずには置かない。己はリストツク新聞に次の記事のあるのを見出した。
「吾人は昨日帝都中に一種の不可思議なる風聞あるを
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