思つたのに気が附いたのである。接吻をするにはあのふつくりした桃色の頬つぺたでも好いと思つた。併し己はそんな事を実行した事はない。白状の序《ついで》に今一歩進んで言へば、己はあの唇に接吻する事も厭ではなかつた。実にあの唇は可哀《かはい》らしい。どうかしてにつこり笑ふと、赤い唇の間から、すぐつた真珠のやうな歯が二列に並んで見える。見えるのではない。上手に見せるのである。あの女は随分好く笑ふ女だ。イワンはあいつを甘やかして「可哀いノンセンス」と云ふが実に適当な評だと云はなくてはならない。あの女は菓子である。ボンボンである。それ以上のものではない。そんな女であるのに、イワンが突然それをロシアのユウジエニイ・ツウルにして見ようとするのはわけが分からない。それはどうでも好いとして、己の夢は、猿だけは別として、愉快な印象を残した。そこで前日の出来事を一々繰り返して考へて見て、それからけふは役所の出掛けに、エレナを訪問しようと決心した。家の友達たる資格を持つてゐる己だから訪問するのが義務だと云つても好いのである。
 エレナは所謂《いはゆる》「小さいサロン」にゐた。これは夫婦の寝間の前にある小部屋の名で
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