はカルルもはじけさうにはないのですからね。」
「まあ、好かつたのね」とエレナが云つた。
イワンは落ち着いて云つた。「持主の云ふ通りだ。どうしても経済的問題が先に立つのだて。」
己は熱心に、成るたけ大きい声をして云つた。「君。待つてゐ給へ。兎に角僕がこれから急いで君の上役の所へ駆け付けて見よう。どうせ我々がこゝで彼此云つても埒《らち》は明かないから。」
イワンが云つた。「僕もさう思ふ。ところでこの不景気な時で見れば、どうしても金銭上の辨償をせずに、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹を切り開ける事は出来まいよ。そこでかう云ふ問題が起る。持主が※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の代価として幾ら請求するかと云ふのだ。この問題に次いで、直ぐに第二の問題が起る。その金を誰が払ふかと云ふのだ。君も御承知の通り、僕は富豪ではないからね。」
己は遠慮勝に云つて見た。「どうだらう。俸給の内から少しづゝ払ふわけには行くまいかね。」
※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の持主は急に己の詞を遮つた。「この※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を売る事は絶対的に出来ません。もし売るにしても三千ルウベルからは一文も引かれません。四千ルウベルと云つたつて好いでせう。今に見物が押し掛けて来るのです。五千ルウベルと云つても好いでせう。」
持主は恐ろしく得意である。目玉が慾で光つてゐる。己は腹の立つのを我慢してイワンに言つた。「そんなら僕は行つて来るよ。」
エレナが取り逆《のぼ》せたやうな調子で云つた。「まあ、お待ちなさいよ。わたしも一しよに行きますから。わたしはアンドレイ・オシピツチユさんに直きに逢つて泣いて頼んで見ます。さうしたら、あの方だつて気強い事は言つてゐられないでせう。」
「おい。そんな事をしては困るよ。」イワンは急にかう云つた。イワンは余程前から妻《さい》が上役に様子を売つてゐるのを気に掛けてゐる。エレナ奴、泣く時の顔が好く見えるのを承知してゐて、その泣顔をあの男に見せて遣らうと思つてゐるのに違ひない。けしからん事だと、イワンは考へたのである。それから己に言つた。「それから君もだがね。セミヨン君。君も上役の所へ行く事は廃し給へ。どんな事になるか知れないからね。それよりか君の個人の資格で、あのチモフエイ・セミニツチユの所へけふの内に行つてくれ給へ。あれは古風で少し痴鈍なところのある男だが、その代り真面目で、何より好い事には、腹蔵なく物を言ふ質《たち》だ。僕が宜しく言つたと云つて、事情を打ち明けて話してくれ給へ。それから僕はあの男に骨牌《かるた》に負けて、七ルウベル借りてゐるから、立替へて返してくれ給へ。さうしたら此事件を引き受ける気になるかも知れない。兎に角どうして好いかと云ふ筋道だけは立てゝくれさうなものだ。それからね、御迷惑だらうが、妻を内まで送つてくれ給へ。」かう云つて置いて、又妻に言つた。「お前はね何も心配するには及ばないよ。己は余りどなるので草臥《くたびれ》たから、これから一寐入りしなくちやならない。まだ己も体の周囲《まはり》を好く検査しては見ないが、兎に角温かで柔かだから為合せだ。」
「あなた検査して見るなんて、そんなに明るいのですか。」エレナは嬉しさうな顔をして、物珍らしげに云つた。
気の毒な囚人は答へた。「大違ひだよ。己の周囲は真つ暗だ。だが手捜りで検査して見る積りだ。そんなら又逢ふから、内へ帰るが好い。心配するには及ばないよ。何も己に気兼をして好な事をせずにゐなくても好い。あす又来ておくれ。」イワンは又己に言つた。「君はね御苦労だが、晩にもう一遍来てくれ給へ。君は忘れつぽいから、直にハンケチに結玉《むすびたま》を一つ拵へてくれ給へ。」
己はこの場を立ち去る事の出来るのが、心の内で嬉しかつた。第一余り長く立つてゐたので足が草臥て来る。それに対話も次第に退屈に感ぜられて来たのである。そこで早速エレナに会釈をして肘を貸して、見せ物部屋を出た。エレナは興奮してゐるので、いつもより美しく見えた。
背後《うしろ》からドイツ人が声を掛けた。「晩にお出なさる時も、見料は二十五コペエケンお持ちなさいよ。」
「まあ、なんと云ふ慾張根性の強い事でせう。」エレナはかう云つて溜息を衝きながら、新道の見せ窓にある鏡に顔を写して見てゐる。多分自分の顔がいつもより美しく見えるのを知つてゐるのだらう。往来の人も別品だと思ふと見えて、頻りに振り返つて見る。
己は夫人に肘を貸してゐるので、得意になつて歩きながら云つた。「例の経済上の問題ですね。」
「経済上の問題ですつて。あの時宅が申した事は、まるでわたしには分かりませんでしたの。その
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