言ふわけには行きますまい。そこで。」
髯男はこの口上をしまひまで饒舌《しやべ》る事が出来なかつた。見せ物の持主は自分の動物を置いてゐる室に、入場料を払はずに、顔を出して、何やら饒舌る人のあるのに気が付いて、ひどく腹を立てゝ飛んで来て、進歩主義と人道との代表者を、聞き苦しいドイツ語で罵りながら、戸の外へ押し出した。何やら戸の外で言ひ合つてゐるのだけが聞える。間もなくドイツ人は室内に帰つて来た。そして髯男を相手に喧嘩をして起した怒《いかり》を、気の毒にもエレナに浴せ掛けた。自分の亭主を助ける為めにドイツ人の可哀がつてゐるカルルに手術をさせようと云ふのが、不都合だと云ふのである。
持主は叫んだ。「なんですと。可哀いわたしのカルルの腹を切り開けて貰ひたいと云ふのですか。それよりあなたの御亭主の腹でも切り開けて、お貰ひなさるが好いでせう。一体わたしの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]をなんと思つてゐるのです。わたしの父も※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を見せ物にした。祖父も※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を見せ物にした。息子も※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を見せ物にするでせう。わたしは生きてゐる間※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を見せ物にする事を廃めようとは思ひません。わたし共は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を見せ物にするのが代々の商売です。わたしの名はヨオロツパ中に知らない者はない。あなたなんぞを、ヨオロツパで誰が知つてゐますか。さう云ふわけですからあなたはわたしに罰金を出さなくてはなりません。分かりましたか。」
憎らしい目附をした上さんが尻馬に乗つて云つた。「さうだよ/\。可哀いカルルがはじければ、この奥さんを裁判所へ連れて行かずに済まされるものかね。」
己はエレナを宥《なだ》めて内へ帰らせようと思つて、割合に落ち着いた調子で云つた。「兎に角※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹を切り開けたところで駄目でせう。察するにイワン君はもうとつくに天国に行つてゐるのでせうから。」
この時思ひ掛けなくイワンの声がしたので、一同はぞつとした。「君、それは間違つてゐるよ。第一この場でどうすれば好いかと云ふに、何より先に区内の警察署に知らせなくては行けない。どうせ警察権を楯にしなくては、そのドイツ人に道理を呑込ませる事は出来ないからね。」
イワンはこの詞をしつかりした、自信のある声で言つた。この場合でそれが出来たところを見ると、イワンは実に物に慌てない男だと云ふ事を証明してゐる。併し我々の為めには如何にも意外なので、声が耳には聞えても、自分で自分の耳を疑つた。併し我々は兎に角ブリツキの盤の側へ駆け寄つて不審に思ふと同時に敬意を表して、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹中に囚はれてゐる気の毒なイワンの詞を敬聴した。
この土地では婚礼の前の晩に色々ないたづらをする風習があるが、さう云ふ晩に己は妙な事をするのを見た。河を隔てゝ向河岸《むかうがし》にゐる百姓と話をする百姓の真似をする物真似である。その為方《しかた》は隣の室に隠れて、口の前に布団をあてゝ、精一ぱい大声を出して饒舌《しやべ》るのである。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中でイワンの饒舌るのが、丁度その物真似の声のやうに聞える。
エレナは体を顫はせて云つた。「イワンさん。そんならあなたはまだ生きてお出なさるのね。」
例の遠方で叫ぶやうな声をして、イワンは答へた。
「生きてゐるとも。しかも極壮健でゐるのだ。為合せな事には、呑まれる時体に少しも創が付かなかつた。唯一つ気に掛かる事がある。外でもないが己がこんな所に這入り込んでゐるのを、上役が聞いたら、なんと云ふかと云ふのが問題だ。外国旅行の許可を得てゐながら、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中に這入つてぐづ/\してゐると聞いては、どうも気の利いた人間のやうには思はれまいて。」
「あの。人に気が利いてゐると思はれようなんぞと云ふ事はかうなればどうでも好いでせう。それよりか、どうにかして早く外へ引き出してお貰ひなさらなくつてはなりませんわ。」
ドイツ人は殆ど怒に堪へないやうな語気で云つた。「引き出すのですと。そんな事はわたしが不承知です。かうなつた日には、わたしの見せ物は前の倍位|流行《はや》るに違ひない。これまでは一人前二十五コペエケン貰つてゐるのですが、これからは五十コペエケンに値上げをします。この様子で
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