問題とか云ふのなんぞはなんの事だか知りませんが、どうせ詰まらない理窟なのでせう。」エレナは媚びるやうな調子で、わざと語気を緩《ゆる》めて云ふのである。
「さうですか。それは僕が直に説明して上げませう。」かう云つて、己は目下の経済では、外債を募るのが一番好結果を得る方法だと云ふ説明を饒舌《しやべ》つた。それは「ペエテルブルク新聞」でけさ読んだのである。
細君は暫く聞いてゐたが、急に詞を遮つた。「そんなものですかね。妙な理窟です事。だがもうお廃しなさいよ、そんな人困らせの議論なんか。一体あなたけふは下らない事ばかり仰やるのね。あの、わたしの顔は余り赤くはないでせうか。」
「なに。赤くはありません。美しいです。」好機会を得て、お世辞を一つ言ふ積りで、己は云つた。
「まあ、お世辞の好い事。」細君は得意げに云つた。それから少し間を置いて、媚びるやうな態度で、小さい頭を傾けて言つた。「ですけれど宅は可哀さうですね。」それから突然何事をか思ひ出した様子で云つた。
「おや。大変だ。あなたどうお思ひなさるの。宅はお午が食べられないでせう。それに何かいる物があつても、どうもする事が出来ないでせうねえ。」
己も細君と一しよになつて途方に暮れた。「成程。それは予期してゐない問題ですね。僕もそこまではまだ考へてゐなかつたのです。それに付けても人生のあらゆる問題に対して、どうも婦人の方が男子より着実な思想を持つてゐるやうですね。」
「まあ、どうしてあんな所へ這入つたものでせうね。今では誰と話をする事も出来ないで、ぼんやりして坐つてゐる事でせう。それに真つ暗だと云ふぢやありませんか。ほんとにこんな事があると知つたら、宅に写真を撮らせて置くのでしたつけ。わたし今は一枚も持つてゐませんの。ほんとにかうなつてみれば、わたしは後家さんのやうなものですね。さうぢやありませんか。」人を迷はせるやうな微笑をして云ふのである。細君は自分が未亡人《びばうじん》のやうな身の上になつたと云ふ事に気が付いて、それをひどく興味があるやうに思つてゐるらしい。暫くして細君は云つた。「ですけれど、気の毒な事は気の毒ですわね。」
細君は続いて色々な事を話した。無理もない。若い美しい奥さんの事だから、別れた亭主を恋しがるのは当り前である。彼此話してゐる内に、我々はイワンの家に来た。細君が午食《ひるしよく》を馳走するので、己は細君を慰めながら馳走になつた。それから六時頃までゐて、コオフイイを一杯飲ませて貰つて、チモフエイの所へ出掛けた。丁度この時刻にはどこの内でも主人は坐つてゐるか横になつてゐるかに極まつてゐると思つたからである。
これまでは非常な出来事を書く為めに、多少|誇張《くわちやう》した筆法で書いたが、これから先は少し調子を変へて、平穏な文章で自然に近く書く事にしようと思ふ。読者もその積りで読んで貰ひたい。
二
チモフエイは妙に忙《せは》しさうな様子をして、己に応接した。なんだか少し慌てゝゐるかとさへ思はれた。先づ小さい書斎に己を連れ込んで、戸を締めてしまつた。「どうも子供がうるさくて行けませんからね」と、心配げに、落ち着かない様子をして云つた。それから手真似で机の傍へ己を坐らせた。自分は楽な椅子に尻を据ゑて、随分古びた綿入の寝衣《ねまき》の裾を膝の上に重ねた。一体この男は己の上役でもなく、イワンの上役でもない。平生は気の置けない同僚で、然も友達として附き合つてゐるのである。それにけふはいやに改まつて、殆ど厳格なやうな顔附をしてゐる。
己が一都始終を話してしまつた時、主人は云つた。「最初に考へてお貰ひ申さねばならないのですが、全体わたしは上役でもなんでもないのですね。あなたともイワン君とも同等の人間です。して見ればさう云ふ事件が生じたに付いて、何もわたしが立ち入つて彼此申さなくても好いやうなものですね。」
己は異様に感じた。何より不思議なのは、主人が最初から一切の事を知つてゐるらしいのである。それでも己は念の為め今一度繰り返して、始終の事を話した。二度目には前より委《くは》しく話した。己の調子は熱心であつた。己はイワンの親友として周旋して遣らなくてはならないと思つたからである。併し今度も主人は少しも感動する様子がない。否、寧ろ猜疑の態度で、己の詞を聞いてゐる。
最後に主人は云つた。「実は早晩《いつか》こんな事が出来はしないかと、疾《と》うから思つてゐましたよ。」
「それはなぜでせう。中々容易に想像の出来ない、非常な事かと思ふのですが。」
「それはあなたの云はれる通りかも知れません。併しあのイワンと云ふ男は役をしてゐる間中見てゐますと、どうもこんな末路に陥りはしないかと懸念せられたのですよ。兎角物事に熱中する癖があつて、どうかすると人を凌駕するやうなところも
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