るの。まあ、御親切様ね。どうしてそんな事が出来ると、お思ひなさるの。帽子を被つて、わたしの着てゐるやうな馬の毛の這入つた裳《も》を付けて、あの中へ這入られませうか。思つても馬鹿げてゐますわ。それに這入つて行く様子はどんなでせう。見られたものではありますまい。誰か見てゐようものならどんなでせう。厭なこと。それにあの中で何が食べられますの。それにもしあの中で。あゝ、馬鹿馬鹿しい。あなたも本とに途方もない事を考へてゐる方ね。それにあの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の中で何か慰みになる事があるでせうか。芝居も見られませんわ。それにゴムの匂がするのですつて。溜らないぢやありませんか。それからあの中で宅と喧嘩をし出かしたらどうでせう。喧嘩をしても、引つ付いてゐなくてはなりませんのね。おう、厭だ。」
己は細君の詞を急に遮つた。誰でも人と争つて、自分の方が道理だと思ふと、人の詞を聞いてはゐられないものである。
「分かりました、分かりました。併しあなたは只一つ大切な事を忘れて入らつしやるのです。それをなんだと云ふと、イワン君がどう云ふ場合にあなたをあそこへ引き取るかと云ふ事です。イワン君が万已むを得ざる場合と云つたのは、もうあなたに逢はずには生きてゐられないと云ふ時期の来た場合ですよ。それは恋愛の為めにさうなるのです。熱烈な、誠実な恋愛ですよ。あなたは恋愛と云ふ事を忘れてお出なさるのです。」
細君は小さい、可哀《かはい》らしい手を振つて、さも厭だと云ふ様子をして、己の前を遮つた。たつた今ブラシで掃除して鑢《やすり》を掛けた爪には、薄赤い血が透き通つて見えてゐる。「わたし厭だわ。厭だわ、厭だわ、厭だわ。もうそんな事を仰やつては厭。ほんとに厭な方ね。今にあなたはわたしを泣かせてしまつてよ。あなたそんなに※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中がお好きなら、御自分で這ひ込んで入らつしやるが好いわ。あなた宅のお友達でせう。恋愛の為めに這ひ込むのが義務なら、友誼の為めに這ひ込むのも義務でせうから、あなたが這ひ込んで、生涯宅と一しよにゐて、たんと喧嘩をなさるとも、いつもの退屈な学問のお話をなさるともなさるが好いわ。」
己は細君の余り思慮のないのを窘《たしな》めるやうに、成るたけ威厳を保つやうに云つた。「あなたは笑談のやうにそ
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