ある。小さいサロンと云ふからには、別に大きいサロンがあるかと思へばさうではない。今一つのサロンも矢張小部屋である。エレナはふわりとした寝巻を着て小さい長椅子に腰を掛けて、前に矢張小さい卓を構へて、矢張小さい茶碗でコオフイイを飲んでゐた。コオフイイの中へは小さいビスケツトの切をくづし入れて飲むのである。エレナは相変らず様子が好いが、けさは少し物案じをしてゐるらしく見える。
己の這入つて来たのを見て、気の散つてゐる様子で微笑《ほゝゑ》んで云つた。「おや。あなたですか。あなた親切気のない方ね。まあ、そこへお掛けなさい。そしてコオフイイでもお上がんなさい。あなたきのふはどこへ入らつしやつたの。晩にはどこにお出なさいましたの。仮装舞踏へは入らつしやらなかつたのね。」
「それではあなたはきのふ仮装舞踏にお出でしたか。一体僕は舞踏会には行かない流義です。それにゆうべは俘《とりこ》になつてゐる人の所にゐなくてはならなかつたのです。」かう云つて己は溜息を衝きながら、面白くない表情をして茶碗を受け取つた。
「どこですと。誰の所に入らつしやつたのですと。俘になつてゐるとは誰の手ですの。ああ、さうさう。あの人の事ですか。何をしてゐましたの。退屈だと云つてゐましたか。それはさうとわたしあなたに伺ひたい事があつてよ。どうでせう。わたし今の身の上で離婚の訴訟を起す事は出来ないでせうか。」
「離婚ですと。」かう云つた己の手からは茶碗があぶなく落る所であつた。そして腹の中では「あの髭黒奴《ひげくろめ》がそんな考を出させるのだな」と思つて胸を悪くした。
髭黒と云ふ男がある。八字髭が黒いから、己がさう云ふ名を付けてゐる。この男は建築局の役人で、近頃頻にエレナの所へ尋ねて来る。それがエレナに頗る気に入つてゐるらしい。察するに髭黒奴は昨晩どこかでエレナに逢つただらう。舞踏会ででも出逢つたか、それともこの部屋に来て話をしたのかも知れない。兎に角ゆうべあたり入智慧をしたのだなと思ふと、己は腹が立つてならなかつた。
エレナは急にじれつたいやうな様子をして言ひ出した。「だつてあなた考へて御覧なさいな。どう云ふものでせう。あの人は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹の中にゐて、事に依つたら生涯帰つて来ないかも知れないでせう。それなのにわたしがこゝに此儘ぢつとしてゐて待ぼけにならな
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