舌る事を書くのだらうか。その苦みをする報に何があるかと云ふと、唯友人の為めに尽すと云ふ満足を感ずるだけの事である。己は腹が立つて、自分で自分をなぐりたくなつた。実際己はランプを吹き消して、掛布団を掛けた跡で拳骨《げんこつ》で自分の頭や体中をこつ/\打つた。十分打つてしまふと、少し気が鎮まつたので、己は寐入つた。疲れ切つてゐるのでぐつすり寐たのである。それから何疋とも知れない猿共が体の周囲《まはり》に飛び廻つてゐる夢を見た。尤も明方になつてからは別なゆめになつた。それはエレナの夢であつた。
四
猿の夢を見たのは前日に見せ物小屋で、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と一しよに飼つてある猿を見たからである。それとは違つて、イワンの妻君エレナを夢に見たには、別にわけがある。
己はこの場で正直に言つてしまふ。己はあの女を愛してゐる。かう云つても、己の詞を誤解して貰つては困る。己があの女を愛すると云ふのは、親父が娘を愛すると同じである。どうしてあの女を愛してゐると云ふ事が己に分かつたかと云ふに、己は度々あの女の小さい頭を引き寄せて、接吻をして遣りたく思つたのに気が附いたのである。接吻をするにはあのふつくりした桃色の頬つぺたでも好いと思つた。併し己はそんな事を実行した事はない。白状の序《ついで》に今一歩進んで言へば、己はあの唇に接吻する事も厭ではなかつた。実にあの唇は可哀《かはい》らしい。どうかしてにつこり笑ふと、赤い唇の間から、すぐつた真珠のやうな歯が二列に並んで見える。見えるのではない。上手に見せるのである。あの女は随分好く笑ふ女だ。イワンはあいつを甘やかして「可哀いノンセンス」と云ふが実に適当な評だと云はなくてはならない。あの女は菓子である。ボンボンである。それ以上のものではない。そんな女であるのに、イワンが突然それをロシアのユウジエニイ・ツウルにして見ようとするのはわけが分からない。それはどうでも好いとして、己の夢は、猿だけは別として、愉快な印象を残した。そこで前日の出来事を一々繰り返して考へて見て、それからけふは役所の出掛けに、エレナを訪問しようと決心した。家の友達たる資格を持つてゐる己だから訪問するのが義務だと云つても好いのである。
エレナは所謂《いはゆる》「小さいサロン」にゐた。これは夫婦の寝間の前にある小部屋の名で
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