造の家屋を一軒貰ひたい。但しその家屋には薬局が一つ付いてゐなくてはならない。それから今一つは自分をロシアの陸軍大佐にして貰ひたいと云ふのである。
イワンが凱歌を奏するやうに叫んだ。「それ見給へ。僕の思つた通りだ。陸軍大佐に任じて貰はうと云ふのは行はれない事だが、その外の要求は至当な事だよ。中々わけの分かつた男で、自分の所有品の値踏をする事は心得てゐるね。兎に角何事に依らず経済問題が先に立つのだて。」
己は腹を立てゝドイツ人に言つた。「一体あなたは陸軍大佐になつてどうしようと云ふのですか。それにそんな上級の軍人にならうと云ふには、これまでどんな履歴があるのですか。どんな軍功を立てたのですか。どこの戦争に参与して、ロシアの本国の為めにどんな手柄をしてゐますか。まさか気が変になつてゐるのではないでせうね。」
ドイツ人はさも侮辱せられたと云ふやうな態度で答へた。
「わたしを狂人だと云ふのですか。わたしは狂人どころではない。普通よりも気がしつかりしてゐるのだ。さう云ふあなたこそどうかしてゐると見えます。まあ、考へて御覧なさいよ。腹の中に生きた官吏を入れてゐる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を持つてゐて、人に見せる事の出来る人間なら、大佐位にしたつて好いです。このロシアに一人でも生きた官吏を腹に入れてゐる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を持つてゐて、人に見せる事の出来るものがありますか。わたし位智慧があれば、大佐になるには十分です。」
己は体が震ふほど腹が立つたので、「イワン君、さやうなら」と言ひ放つて、見せ物場を駆け出した。己は殆ど我慢がし切れなくなつてゐた。ドイツ人もドイツ人だが、イワンもイワンである。二人とも途方もない夢を見てゐるではないか。それを考へると、どうも我慢がし切れないのである。
見せ物場の外へ出て、冷たい夕暮の空気に触れたので、己の腹の立つのが少し直つた。己は唾《つばき》を一つして、荒々しい声で辻馬車を呼んで、それに飛び乗つて内へ帰つた。そして直ぐに着物を脱いで床に這入つた。
横になつてからつく/″\考へて見ると、イワンが己を書記に使ふと言つた時、己はそれに反対しなかつた。さうして見ると、もう書記になる事を承諾したも同じ事である。これから先毎晩あの見せ物小屋へ出掛けて行つて、あいつの饒
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