毎日いるよ。まあ、けふはこれだけにして置かう、君ももう眠たくなつただらうから。もうそれで好いから君は帰り給へ。そしてさつき僕の言つた批評の事を好く考へて見てくれ給へ。実は僕はさほど批評をこはがつてはゐない。批評家だつて皆窮境にゐるのだからね。兎に角こつちに智慧があつて、それで品行を好くしてゐればあいつ等が持ち上げてくれるに極まつてゐる。まあ、ソクラテエスでなければ、ヂオゲネスと来るのだ。或ひは両方を兼ねたやうな風にするが好いかも知れない。まあ、将来人類の為めに働くには、僕はさう云ふ立場にゐて働く積りだ。」
 女が年を取つていく地がなくなると秘密と云ふものを守る事が出来ないと云ふが、イワンの軽卒に、相手がなんと思つても構はずに、自分の議論を急いで話さうとする様子は、丁度その女のやうに思はれた。なんでも余程高い熱が出てゐさうである。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の内部の構造に就いて、イワンの言つた事なぞは、殊に怪しい。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]だつて胃も心の臓も肺も無いと云ふ事は受け取りにくい。あんな事を言ふのは、人に誇る為めに出たらめを言ふのではあるまいか。事に依つたら、己をへこます為めに言ふ気味もあるかも知れない。併しイワンは病気に相違ない。病人は大事に取り扱つて遣らなくてはならない。かうは思ふものゝ正直を言へば己は昔からイワンと云ふ男を気に食はなく思つてゐた。己は子供の時から、この男に見くびられて、余計な世話ばかり焼かれてゐた。一その事絶交してしまはうかと思つた事は何度だか知れない。それでもとう/\今まで附き合つてゐるが、それにはいつも返報をして遣る時期が来るかも知れないと、心の奥で殆ど無意識に思つてゐるらしくも見える。実にイワンと己との交際は不思議だと云はなくてはならない。なんだか二人の間の交誼の十分の九は忿懣から成立つてゐるとでも云ひたい位である。それに拘はらず己はこの晩にはイワンに優しく別を告げた。
 ※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の持主のドイツ人は己の側へ歩み寄つて、「あなたのお友達は豪《えら》い人ですね」と云ひながら、己を見せ物場の外へ送つて出た。ドイツ人は己とイワンとの対話を始終注意して聞いてゐたのである。
 己はドイツ人のまだ何か言ひさうにしてゐ
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