者にも話して遣る。彼等に敷衍《ふえん》させて遣るのだね。新聞記者の僕の議論を賛成する事は独り税率問題ばかりではあるまいと思ふ。何れこれからは毎朝《まいてう》新聞記者が群をなして来て、このブリツキの盤の周囲《まはり》を取り巻いて、最近の海外電報に対する僕の意見を聞くだらう。まあ、僕の一言一句を、彼等が争つて書き留めると云ふ風になるに相違ないね。要するに僕の前途は光明で満たされてゐるよ。」
己は腹の中で、「譫語《うはこと》だ譫語だ」と思ひ続けてゐる。暫くして己は友人に聞いて見た。「ところで君、自由に就いてはどう考へてゐるね。兎に角君は今真つ暗い所に囚はれてゐるぢやないか。人間と云ふものは自由を得て始めて満足すべきものだとは思はないかね。」
イワンは意外にもかう云つた。「君は馬鹿だよ。自由だの独立だのと云ふ事は、それは野蛮人の愛するものだ。智者は秩序を愛するね。もし秩序がないとなると。」
「君、それは」と、己はイワンの詞を遮らうとした。
イワンは己の喙《くちばし》を挾《さしはさ》んだのを不快に思つたと見えて、叫ぶやうに云つた。「まあ、黙つて聞き給へ。僕の精神が今のやうに高尚に活動した事はこれまでにないのだ。唯この狭い住家にゐて、僕が多少気にしてゐるのは、諸新聞の文学欄の批評と、それから諷刺的の雑誌の記事と、この二つだね。こゝへ見に来る人間の中にも軽はずみの奴が交つてゐる。馬鹿がゐる。焼餅焼がゐる。一言これを掩へば虚無主義者がゐる。さう云ふ奴が滑稽の方へ僕を引き付けるかも知れない。併し僕にはこれに対する手段があるよ。兎に角僕は輿論が早く聞きたい。新聞がなんと云ふか早く見たい。君、あす来る時は諸新聞を揃へて持つて来てくれ給へ。」
「それは揃へて持つて来るよ。」
「併し実はまだ早いな。あしたの新聞に僕の事が論じてあらうと期待するのは少し無理だ。大抵このロシアでは新事件の論評は、四日目位立つてからでなくては出ないのだからね。それから君は今後は毎晩裏口から僕の所へ来る事にしてくれ給へ。君に僕の書記を勤めて貰ふ積りだからね。君が持つて来た新聞を読んで聞かせてくれる。さうすると僕がそれに対する意見を述べて君に筆記させる。それから必要な処分があれば、それを君に命ずるのだ。何より大切なのは最近の外国電報だから、それを忘れないやうに持つて来給へよ。最近のヨオロツパの電信だね。それは是非
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