備を十分にしようと思つたのだ。この様子ではあすはまるで市が立つたやうになるだらう。先づ予測するのにこの様子では市中の教育のある人間は皆来る事になるに違ひない。上流の貴婦人連も来るだらう。外国の大使や公使は勿論、大使館公使館の書記官達も来るだらう。判事検事辯護士なんぞも来るだらう。そればかりではない。いづれこのロシアと云ふ物見高い大国のあらゆる県から、地方人民が争つて、この不思議を見に出掛けて来るだらう。さうなつて見ると、顔を見せて遣る事は出来ないが、兎に角非常に有名な人物になるに極まつてゐる。この機会を利用して、世間のなまけ者共を教育して遣りたいと思ふ。こんな珍しい経験をしたのだから、人間が運命の前には自ら抑へて謙徳を守るべきものだと云ふ模範になつて見せて遣らうと思ふ。詰まり形容して言へば、教壇の上に立つて、世間の人を諭して遣る事が出来るのだ。早い話が、単にこの住家になつてゐる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふ動物の事に就いて、自然学上の事実を話すばかりでも、世間の為めにどの位有益だか分からない。さう云ふわけだから、こんな所へ這入つて来た運命を歎くに及ばないことは無論で、却てこの偶然のお蔭で、非常な出世をすると云つても好いのだ。」
己はこの長談義を聞いてしまつて、無愛想な調子で云つた。「併し君、退屈になつて困りさへしなければ好いがね。」一番己の癪に障つたのは、イワンがいつも云ふ「僕」と云ふ事をまるで省いて、代名詞なしに自分の事を饒舌《しやべ》つてゐるのである。これは非常に傲慢な物の言ひやうである。イワンはそんな調子で饒舌るのだが、己の方で考へて見れば、イワンの態度は、実に以ての外だと云はなくてはならない。一体馬鹿奴が途方もない己惚《うぬぼれ》を出したものだ。泣いても好い位な境遇にゐながら、大言をすると云ふ事があるものか。
退屈さへしなければ好いがと、己が云ふのを聞いて、無愛想にイワンは云つた。「退屈なんぞをするものか。なぜと云ふにこの胸には偉大な思想が一ぱいになつてゐる。やつと今度|隙《ひま》になつたので、人間生活の要素をどう改良したら好いかと云ふ事を考へて見る事が出来る。いづれ今後世界に向つて真理と光明とがこの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]から発表せられる事になるだらう。遠からず経済上の新し
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