い理論を建設する事が出来るに違ひない。天下に対して誇つても好い理論が出来るだらう。これまでは簿書《ぼしよ》の堆裏《たいり》に没頭してゐたり、平凡な世間の娯楽に時間を費したりしてゐたので、それが出来なかつたのだ。古い議論は悉《こと/″\》く反駁して遣る。反証を挙げて遣る。詰まり新しいシヤアル・フウリエエが世に出ると云ふものだ。時に君、チモフエイに七ルウベル返してくれたかね。」
「たしかに返したから、さう思つてくれ給へ。僕のポケツトから返したから。」自分の銭で、イワンの借財を返したと云ふ事を、はつきり聞かせるやうに、己は答へた。
イワンは高慢な声で云つた。「それは今に君に返すよ。いづれ遠からず俸給が一等だけ上がるだらう。かう云ふ場合に進級させないやうでは、誰を進級させる事も出来まいからなあ。これからこつちはどの位世間に利益を与へて遣るか分からない。それはさうと、妻《さい》はどうしたね。」
「エレナさんが機嫌好く暮してゐるかどうか、聞きたいと云ふのかね。」
「妻だよ。妻はどうしたと云ふのだ。」その声はまるで婆あさんが小言を言ふやうである。
己はどうも為方がないから、心中では歯咬《はが》みをしながら、おとなしく話した。エレナを留守宅まで連れて行つて、そこで別れたと云つたのである。
併し皆まで聞かずに、イワンは苛々した調子で己の詞を遮つた。「あいつの事も考へてゐるて。こつちがこゝで名高くなれば、あいつも内で名高くなつてくれなくてはならん。午前《ひるまへ》に妻はこゝへ来てこつちの話を聞く。それから晩にサロンへ客を呼び迎へる。あらゆる科学者、詩人、哲学者、動物学者が集まつて来る。内国のも外国のも来る。あらゆる政治家も来る。そして午前に聞いた事を、妻が話すのだ。来週からは毎晩サロンを開いて客を迎へるが好い。いづれ入費は掛かるだらうが、俸給が倍になれば、その位な事は出来よう。さう云ふ席では茶を飲ませさへすれば好いから、茶の代と執事を雇ふ代とさへあれば好い。別に費用問題に面倒はいらん。さうなればこゝでも留守宅でも、人はこつちの事しか言はない。どうもこれまで何かの機会があつたら、人がこつちの噂をするやうにしようと思つたが、その望が叶はなかつた。詰まり下級官吏の位置と資格とに縛せられてゐたのだ。どうも不思議だよ。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]奴が気ま
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