と云ふ考をも起した。さう云ふ考はあの※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]と云ふ動物が化物じみた動物だから、一層起り易いのである。
三
併しそれが夢ではなくて、争ふべからざる事実である。さうでなかつたら、己だつてこんな事をしないだらう。兎に角その後を話すとしよう。
新道に行き着いたのは、もう大ぶ遅かつた。彼此九時頃であつただらう。持主がもう見せ物をしまつてゐたので、己はやつと裏口から小屋に這入つた。持主は古い、汚れた上着を着てゐるが、世の中にも満足し、自分にも満足してゐるらしい様子で、小屋の部屋々々を歩き廻つてゐた。なんの心配も無いと云ふ事、夕方にも見物が大勢這入つたと云ふ事が一目この男の態度を見れば、察せられる。例のおつ母さんと云ふ女は、余程後になつてから現はれて来た。その様子が己を監視する為めに出たやうに見えた。夫婦は度々鉢合せをするやうにして囁き合つてゐる。もう見せ物はしまつてゐたのに、己には定めの二十五コペエケンを払はせた。一体物事を余り極端に厳重にすると云ふものは厭なものだ。
「どうぞこれからもお出なさる度に間違ひのないやうに御勘定をしてお貰ひ申しませう。普通のお客からは一人前一ルウベルの割で払つて貰ふのですが、あなただけは二十五コペエケン出して下されば好いのです。あなたはあの先生の御親友ですからな。わたしだつて友誼と云ふものを尊重すること位知つてゐますよ。」
「まだ生きてゐますか、あの男は」と、己は大声で云つて置いて、持主のドイツ人に構はずに、急いで※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の側へ行つて見た。己が大声でそんな事を言つたのは、その声がイワンに聞えたら、イワンが自分の事を思つてくれると信じて、喜ぶだらうと、内々考へて言つたのである。
かう思つたのは徒事《いたづらごと》ではなかつた。
「生きてゐるよ、而《しか》も達者で」と、どこか家の奥の方から言ふやうにも思はれ、又布団を頭から被つて言ふやうにも思はれる声がした。その癖己はもう※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の側まで駆け付けてゐたのである。その声が又かう云つた。「だがそんな事は跡でも好い。どんな様子だね。」
己はイワンの問を聞かないやうな風をして、忙しげに親切らしく、却て己の方から種々な事を聞い
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