は誰も怪まぬようになっているのである。
余興の席は廊下伝いに往く別室であった。正面には秋水が著座している。雑誌の肖像で見た通りの形装《ぎょうそう》である。顔は極《きわめ》て白く、脣《くちびる》は極て赤い。どうも薄化粧をしているらしい。それと並んで絞《しぼり》の湯帷子を著た、五十歳位に見える婆あさんが三味線を抱《かか》えて控えている。
浪花節が始まった。一同謹んで拝聴する。私も隅の方に小さくなって拝聴する。信仰のない私には、どうも聞き慣れぬ漢語や、新しい詩人の用いるような新しい手爾遠波《てにをは》が耳障《みみざわり》になってならない。それに私を苦めることが、秋水のかたり物に劣らぬのは、婆あさんの三味線である。この伴奏は、幸にして無頓著な聴官を有している私の耳をさえ、緩急を誤ったリズムと猛烈な雑音とで責めさいなむのである。
私は幾度《いくたび》か席を逃れようとした。しかし先輩に対する敬意を忘れてはならぬと思うので、私は死を決して堅坐していた。今でも私はその時の殊勝な態度を顧みて、満足に思っている。
義士等が吉良《きら》の首を取るまでには、長い長い時間が掛かった。この時間は私がまだ大
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