の上に絽《ろ》の羽織やら、いずれも略服で、それが皆|識《し》らぬ顔である。下足札を受け取って上がって、麦藁帽子《むぎわらぼうし》を預けて、紙札を貰《もら》った。女中に「お二階へ」と云われて、梯《はしご》を登り掛かると、上から降りて来る女が「お暑うございますことね」と声を掛けた。見れば、柳橋で私の唯一人識っている年増芸者であった。
この女には鼠頭魚《きす》と云う諢名《あだな》がある。昔は随分美しかった人らしいが、今は痩《や》せて、顔が少し尖《とが》ったように見える。諢名はそれに因《よ》って附けられたものである。もう余程前から、この土地で屈指の姉えさん株になっている。
私には芸者に識合《しりあい》があろう筈がない。それにどうして鼠頭魚を知っているかと云うと、それには因縁がある。私の大学にいた頃から心安くした男で、今は某会社の頭取になっているのが、この女の檀那《だんな》で、この女の妹までこの男の世話になって、高等女学校にはいっている。そこで年来その男と親くしている私を、鼠頭魚は親類のように思っているのである。
私は二階に上がって、隅の方にあった、主のない座布団《ざぶとん》を占領した。戸
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