余興
森鴎外
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)亀清《かめせい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|識《し》らぬ顔
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)裸※[#「ころもへん+呈」、第3水準1−91−75]《らてい》に
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同郷人の懇親会があると云うので、久し振りに柳橋の亀清《かめせい》に往った。
暑い日の夕方である。門から玄関までの間に敷き詰めた御影石《みかげいし》の上には、一面の打水がしてあって、門の内外には人力車がもうきっしり置き列《なら》べてある。車夫は白い肌衣《はだぎ》一枚のもあれば、上半身全く裸※[#「ころもへん+呈」、第3水準1−91−75]《らてい》にしているのもある。手拭《てぬぐい》で体を拭《ふ》いて絞っているのを見れば、汗はざっと音を立てて地上に灑《そそ》ぐ。自動車は門外の向側に停めてあって技手は襟《えり》をくつろげて扇をばたばた使っている。
玄関で二三人の客と落ち合った。白のジャケツやら湯帷子《ゆかた》の上に絽《ろ》の羽織やら、いずれも略服で、それが皆|識《し》らぬ顔である。下足札を受け取って上がって、麦藁帽子《むぎわらぼうし》を預けて、紙札を貰《もら》った。女中に「お二階へ」と云われて、梯《はしご》を登り掛かると、上から降りて来る女が「お暑うございますことね」と声を掛けた。見れば、柳橋で私の唯一人識っている年増芸者であった。
この女には鼠頭魚《きす》と云う諢名《あだな》がある。昔は随分美しかった人らしいが、今は痩《や》せて、顔が少し尖《とが》ったように見える。諢名はそれに因《よ》って附けられたものである。もう余程前から、この土地で屈指の姉えさん株になっている。
私には芸者に識合《しりあい》があろう筈がない。それにどうして鼠頭魚を知っているかと云うと、それには因縁がある。私の大学にいた頃から心安くした男で、今は某会社の頭取になっているのが、この女の檀那《だんな》で、この女の妹までこの男の世話になって、高等女学校にはいっている。そこで年来その男と親くしている私を、鼠頭魚は親類のように思っているのである。
私は二階に上がって、隅の方にあった、主のない座布団《ざぶとん》を占領した。戸は悉《ことごと》く明け放ってある。国技館の電燈がまばゆいように半空《なかぞら》に赫《かがや》いている。
座敷を見渡すに、同郷人とは云いながら、見識った顔は少い。貴族的な風采《ふうさい》の旧藩主の家令と、大男の畑少将とが目に附いた。その傍に藩主の立てた塾の舎監をしている、三枝《さいぐさ》と云う若い文学士がいた。私は三枝と顔を見合せたので会釈をした。
すると三枝が立って私の傍に来て、欄干《らんかん》に倚《よ》って墨田川を見卸《みおろ》しつつ、私に話し掛けた。
「随分暑いねえ。この川の二階を、こんなに明け放していて、この位なのだからね」
「そうさ。好く日和《ひより》が続くことだと思うよ。僕なんぞは内にいるよりか、ここにこうしている方が、どんなに楽だか知れないが、それでも僕は人中が嫌《いや》だから、久しくこうしていたくはないね。どうだろう。今夜は遅くなるだろうか」
「なに。そんなに遅くもなるまいよ。余興も一席だから」
「余興は何を遣《や》るのだ」
「見給え。あそこに貼《は》り出してある。畑|閣下《かっか》が幹事だからね」
こう云って置いて、三枝は元の席に返ってしまった。
私は始て気が附いて、承塵《なげし》に貼り出してある余興の目録を見た。不折《ふせつ》まがいの奇抜な字で、余興と題した次に、赤穂義士討入と書いて、その下に辟邪軒秋水《へきじゃけんしゅうすい》と注してある。
秋水の名は私も聞いていた。電車の中の広告にも、武士道の鼓吹者《こすいしゃ》、浪界の泰斗《たいと》と云う肩書附で、絶えずこの名が出ているから、いやでも読まざることを得ぬのである。或る時何やらの雑誌で秋水の肖像を見た。芝居で見る由井正雪のように、長い髪を肩まで垂れて、黒紋附の著物《きもの》を著ていた。同じ雑誌の記事に依れば、この武士道鼓吹者には女客の贔屓《ひいき》が多いそうである。
しかし男に贔屓がないことはない。勿論不幸にして学生なんぞにはそんな人のあることを聞かない。学生は堕落していて、ワグネルがどうのこうのと云って、女色に迷うお手本のトリスタンなんぞを聞いて喜ぶのである。男の贔屓は下町にある。代を譲った倅《せがれ》が店を三越まがいにするのに不平である老舗《しにせ》の隠居もあれば、横町の師匠の所へ友達が清元の稽古《けいこ》に往くのを憤慨している若い衆もある。それ等の人々は脂粉の気が立ち籠《こ》めて
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