いる桟敷《さじき》の間にはさまって、秋水の出演を待つのだそうである。その中へ毎晩のように、容貌魁偉《ようぼうかいい》な大男が、湯帷子に兵児帯《へこおび》で、ぬっとはいって来るのを見る。これが陸軍少将畑閣下である。
 畑は快男子である。戦略戦術の書を除く外、一切の書を読まない。浄瑠璃《じょうるり》を聞いても、何をうなっているやらわからない。それが不思議な縁で、ふいと浪花節《なにわぶし》と云うものを聴いた。忠臣孝子義士節婦の笑う可《べ》く泣く可く驚く可く歎ず可き物語が、朗々たる音吐《おんと》を以て演出せられて、処女のように純潔無垢な将軍の空想を刺戟《しげき》して、将軍に睡壺《だこ》を撃砕する底《てい》の感激を起さしめたのである。畑はこの時から浪花節の愛好者となり浪花節語りの保護者となった。
 そこでこの懇親会の輪番幹事の一人たる畑が、秋水を請待《しょうだい》して、同郷の青年を警醒《けいせい》しようとしたのだと云うことは、問うことを須《もち》いない。
 暫《しばら》くして畑の後輩で、やはり幹事に当っている男が、我々を余興の席へ案内した。宴会のプログラムの最初に置かれたものを余興と称しても、今は誰も怪まぬようになっているのである。
 余興の席は廊下伝いに往く別室であった。正面には秋水が著座している。雑誌の肖像で見た通りの形装《ぎょうそう》である。顔は極《きわめ》て白く、脣《くちびる》は極て赤い。どうも薄化粧をしているらしい。それと並んで絞《しぼり》の湯帷子を著た、五十歳位に見える婆あさんが三味線を抱《かか》えて控えている。
 浪花節が始まった。一同謹んで拝聴する。私も隅の方に小さくなって拝聴する。信仰のない私には、どうも聞き慣れぬ漢語や、新しい詩人の用いるような新しい手爾遠波《てにをは》が耳障《みみざわり》になってならない。それに私を苦めることが、秋水のかたり物に劣らぬのは、婆あさんの三味線である。この伴奏は、幸にして無頓著な聴官を有している私の耳をさえ、緩急を誤ったリズムと猛烈な雑音とで責めさいなむのである。
 私は幾度《いくたび》か席を逃れようとした。しかし先輩に対する敬意を忘れてはならぬと思うので、私は死を決して堅坐していた。今でも私はその時の殊勝な態度を顧みて、満足に思っている。
 義士等が吉良《きら》の首を取るまでには、長い長い時間が掛かった。この時間は私がまだ大学にいた時最も恐怖すべき高等数学の講義を聴いた時間よりも長かった。それを耐忍したのだから、私は自ら満足しても好いかと思う。
 ようよう物語と同じように節を附けた告別の詞《ことば》が、秋水の口から出た。前列の中央に胡坐《あぐら》をかいていた畑を始として、一同拍手した。私はこの時|鎖《くさり》を断たれた囚人の歓喜を以て、共に拍手した。
 畑等が先に立って、前に控所であった室の隣の広間をさして、廊下を返って往く。そこが宴会の席になっているのである。
 私は遅れて附いて行く時、廊下で又|鼠頭魚《きす》に出逢った。
「大変ね」と女は云った。
「何が」と真面目《まじめ》な顔をして私は問いかえした。
「でも」と云ったきり、噴き出しそうになったのを我慢するらしい顔をして、女は摩《す》れ違った。
 私は筵会《えんかい》の末座に就いた。若い芸者が徳利の尻を摘《つ》まんで、私の膳の向うに来た。そして猪口《ちょく》を出した私の顔を見て云った。
「面白かったでしょう」
 大人か小児《こども》に物を言うような口吻《こうふん》である。美しい目は軽侮、憐憫《れんみん》、嘲罵《ちょうば》、翻弄《ほんろう》と云うような、あらゆる感情を湛《たた》えて、異様に赫《かがや》いている。
 私は覚えず猪口を持った手を引っ込めた。私の自尊心が余り甚《はなは》だしく傷《きずつ》けられたので、私の手は殆《ほとん》ど反射的にこの女の持った徳利を避けたのである。
「あら。どうなすったの」
 女の目に映じているのは、前に異なった感情である。それを分析したら、怪訝《かいが》が五分に厭嫌《えんけん》が五分であろう。秋水のかたり物に拍手した私は女の理解する人間であったのに、猪口の手を引いた私は、忽《たちま》ち女の理解すること能《あた》わざる人間となったのである。
 私ははっと思って、一旦《いったん》引いた手を又出した。そして注《つ》がれた杯の酒を見つつ、私は自ら省みた。
「まあ、己《おれ》はなんと云う未錬《みれん》な、いく地のない人間だろう。今己と相対しているのは何者だ。あの白粉《おしろい》の仮面の背後に潜む小さい霊が、己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。試みに反対の場合を思って見ろ。この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、それが己の喜ぶべき事だろう
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