に始まるのである。札はどちらも疾《と》つくに売り切れた。これまで度度難儀に逢つて来た市立劇場の座主は、妬ましげに此人気を見てゐる。いやはや。己なんぞはワグネルを聞せて遣つたり、イブセンを見せて遣つたりする。一歩進んでバアナアド・シヨオをも見せて遣る。所が人の見たがるのは白熊や手長猿だ。ロオデンシヤイド市の物のわかる連中に来て貰はうと思つて、何遍も骨を折つて見た。所が誰も来てはくれない。それがどうだ。今あの曲馬になら、人波を打つて押し寄せる。しかもなんと云ふ景気だ。
午後興行の大入と云つたら無い。大きな建物が殆どきい/\鳴つてゐる。織屋や鉱山稼の人達が女房子供を連れて来てすわり込んでゐる。休日にもまだ炭の粉《こ》や器械油の附いてゐる、胼胝《たこ》の出来た手が鳴る。これが本当のおなぐさみだ。一週間の、残酷な日傭稼《ひようかせぎ》の苦も忘れられる。鉱山の坑《あな》の闇が不思議の赫きになつて、歎息の声が哄笑の声になる。丸で種類の変つた人間が丸で性質の変つた冒険をするのが面白い。一体あの白熊のうちのどれかが怒り出すと好いのだが、生憎《あいにく》怒らない。山の坑の中では、いつ爆発があるやら分から
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