、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が忍びやかに鳴く様に、ここへ来てハルロオと呼ぶのである。しかし木精の答えてくれるのが嬉《うれ》しい。木精に答えて貰《もら》うために呼ぶのではない。呼べば答えるのが当り前である。日の明るく照っている処に立っていれば、影が地に落ちる。地に影を落すために立っているのではない。立っていれば影が差すのが当り前である。そしてその当り前の事が嬉しいのである。
フランツは父が麓《ふもと》の町から始めて小さい沓《くつ》を買って来て穿《は》かせてくれた時から、ここへ来てハルロオと呼ぶ。呼べばいつでも木精の答えないことはない。
フランツは段々大きくなった。そして父の手伝をさせられるようになった。それで久しい間例の岩の前へ来ずにいた。
ある日の朝である。山を一面に包んでいた雪が、巓《いただき》にだけ残って方々の樅《もみ》の木立が緑の色を現して、深い深い谷川の底を、水がごうごうと鳴って流れる頃の事である。フランツは久振《ひさしぶり》で例の岩の前に来た。
そして例のようにハルロオと呼んだ。
麻のようなブロンドな頭を振り立って呼んだ。しかし声は少し荒《さび》を帯びた次
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