木精
森鴎外
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)巌《いわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午過《ひるすぎ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が
−−
巌《いわ》が屏風《びょうぶ》のように立っている。登山をする人が、始めて深山薄雪草《みやまうすゆきそう》の白い花を見付けて喜ぶのは、ここの谷間である。フランツはいつもここへ来てハルロオと呼ぶ。
麻のようなブロンドな頭を振り立って、どうかしたら羅馬《ロオマ》法皇の宮廷へでも生捕《いけど》られて行きそうな高音でハルロオと呼ぶのである。
呼んでしまってじいっとして待っている。
暫《しばら》くすると、大きい鈍いコントルバスのような声でハルロオと答える。
これが木精《こだま》である。
フランツはなんにも知らない。ただ暖かい野の朝、雲雀《ひばり》が飛び立って鳴くように、冷たい草叢《くさむら》の夕《ゆうべ》、※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が忍びやかに鳴く様に、ここへ来てハルロオと呼ぶのである。しかし木精の答えてくれるのが嬉《うれ》しい。木精に答えて貰《もら》うために呼ぶのではない。呼べば答えるのが当り前である。日の明るく照っている処に立っていれば、影が地に落ちる。地に影を落すために立っているのではない。立っていれば影が差すのが当り前である。そしてその当り前の事が嬉しいのである。
フランツは父が麓《ふもと》の町から始めて小さい沓《くつ》を買って来て穿《は》かせてくれた時から、ここへ来てハルロオと呼ぶ。呼べばいつでも木精の答えないことはない。
フランツは段々大きくなった。そして父の手伝をさせられるようになった。それで久しい間例の岩の前へ来ずにいた。
ある日の朝である。山を一面に包んでいた雪が、巓《いただき》にだけ残って方々の樅《もみ》の木立が緑の色を現して、深い深い谷川の底を、水がごうごうと鳴って流れる頃の事である。フランツは久振《ひさしぶり》で例の岩の前に来た。
そして例のようにハルロオと呼んだ。
麻のようなブロンドな頭を振り立って呼んだ。しかし声は少し荒《さび》を帯びた次
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング