ェも現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかつた。それでかう云ふ心持が附き纏《まと》つてゐるのだらうと思ふのである。
少壮時代に心の田地《でんぢ》に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。冷眼《れいがん》に哲学や文学の上の動揺を見てゐる主人の翁は、同時に重い石を一つ一つ積み畳《かさ》ねて行くやうな科学者の労作にも、余所《よそ》ながら目を附けてゐるのである。
Revue《ルヰユウ》 des《デ》 Deux《ドユウ》 Mondes《モオンド》 の主筆をしてゐた旧教徒 〔Brunetie're〕《ブリユンチエエル》 が、科学の破産を説いてから、幾多の歳月を閲《けみ》しても、科学はなかなか破産しない。凡《すべ》ての人為《じんゐ》のものの無常の中で、最も大きい未来を有してゐるものの一つは、矢張科学であらう。
主人の翁《おきな》はそこで又こんな事を思ふ。人間の大厄難になつてゐる病《やまひ》は、科学の力で予防もし治療もすることが出来る様になつて来た。種痘で疱瘡《はうさう》を防ぐ。人工で培養《ばいやう》した細菌やそれを種《う》ゑた動物の血清《けつせい》で、窒扶斯《チフ
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