ュじんしゆ》のやうな視力を持つてゐて、世間の人が懐かしくなつた故人《こじん》を訪ふやうに、古い本を読む。世間の人が市《いち》に出て、新しい人を見るやうに新しい本を読む。
倦《う》めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波瀾《はらん》を見る。
僕《ぼく》八十八《やそはち》の薦《すす》める野菜の膳に向つて、飢を凌《しの》ぐ。
書物の外で、主人の翁の翫《もてあそ》んでゐるのは、小さい Loupe《ルウペ》 である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。その外 Zeiss《ツアイス》 の顕微鏡がある。海の雫《しづく》の中にゐる小さい動物などを見る Merz《メルツ》 の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。
主人の翁はこの小家に来てからも幻影を追ふやうな昔の心持を無くしてしまふことは出来ない。そして既往《きわう》を回顧してこんな事を思ふ。日《ひ》の要求に安んぜない権利を持つてゐるものは、恐らくは只天才ばかりであらう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云ふ境地に立つたら、自
前へ
次へ
全34ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング