《は》ね上げられて、松林の松の梢《こずゑ》に引つ懸《かか》つてゐたといふ話のある此砂山には、土地のものは恐れて住まない。
 河は上総《かづさ》の夷※[#「さんずい+((旡+旡)/鬲)」、第3水準1−87−31]川《いしみがは》である。海は太平洋である。
 秋が近くなつて、薄靄《うすもや》の掛かつてゐる松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを一廻《ひとめぐ》りして来て、八十八《やそはち》という老僕の拵《こしら》へた朝餉《あさげ》をしまつて、今自分の居間に据わつた処である。
 あたりはひつそりしてゐて、人の物を言ふ声も、犬の鳴く声も聞えない。只|朝凪《あさなぎ》の浦の静かな、鈍い、重くろしい波の音が、天地の脈搏《みやくはく》のやうに聞えてゐるばかりである。
 丁度|径《わたり》一尺位に見える橙黄色《たうわうしよく》の日輪《にちりん》が、真向うの水と空と接した処から出た。水平線を基線にして見てゐるので、日はずんずん升《のぼ》つて行くやうに感ぜられる。
 それを見て、主人は時間といふことを考へる。生といふことを考へる。死といふ事を考へる。
「死は哲学の為めに真の、気息を嘘《ふ》き込む神である
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