hを心の内に感じてゐながら、何の師匠を求めるにも便《たよ》りの好い、文化の国を去らなくてはならないことになつた。生きた師匠ばかりではない。相談相手になる書物も、遠く足を運ばずに大学の図書館に行けば大抵間に合ふ。又買つて見るにも注文してから何箇月目に来るなどといふ面倒は無い。さういふ便利な国を去らなくてはならないことになつた。
 故郷は恋しい。美しい、懐かしい夢の国として故郷は恋しい。併し自分の研究しなくてはならないことになつてゐる学術を真に研究するには、その学術の新しい田地《でんぢ》を開墾して行くには、まだ種々《いろいろ》の要約の闕《か》けてゐる国に帰るのは残惜《のこりを》しい。敢《あへ》て「まだ」と云ふ。日本に長くゐて日本を底から知り抜いたと云はれてゐる独逸《ドイツ》人某は、此要約は今|闕《か》けてゐるばかりでなくて、永遠に東洋の天地には生じて来ないと宜告した。東洋には自然科学を育てて行く雰囲気《ふんゐき》は無いのだと宣告した。果してさうなら、帝国大学も、伝染病研究所も、永遠に欧羅巴《ヨオロツパ》の学術の結論丈を取り続《つ》ぐ場所たるに過ぎない筈である。かう云ふ判断は、ロシアとの戦争
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